(1999.2.7更新)


第6回 『愛する人と会うな』(?)
 1999.02.07

ページのレイアウトが変わりました。女子高生風に言えば「メッチャ甘い」 ! だってもうじきバレンタインデーですものね。聖ニコラス(サンタクロース)といい、聖バレンタインといい、本人が草葉の陰から これらの年中行事を見たらびっくりすることでしょう。

栄眞は Dhammapadaダンマパダ(『真理のことば』)というパーリ語の経典が好きで、何度か推薦図書にしたことがありました。その中に、レポートを書かせると、決まって女子大生達の猛烈な反発をくらう章がありました。
第16章 愛するもの

210 愛する人と会うな。
       愛していない人とも会うな。
       愛する人に会わないのは苦しい。
       また、愛していない人に会うのも苦しい。

211 それ故に 愛する人を作るな。
       愛する人を失うのは わざわいである。
       愛する人も 憎む人もいない人々には、
       わずらいの絆が存在しない。

 このあたりが、彼女たちは とても気に入らなかったようなのです。


「この〈愛〉というのは〈愛執〉のことであって、執着、欲望です。皆さんの思っているキリスト教の〈愛〉のようなものは、仏教では〈慈悲〉という言葉で表わします」

と説明してきました。でも、これ、ちょっと違うかも?



栄眞は この古いお経が 出家の専門僧に対して語られた言葉であることを 忘れていたようです。このDhammapadaやSuttanipataスッタニパータ等の古いお経は 教団に出家した人々に対して説かれたものです。

出家して比丘(これまた 音写語で、「乞食者」=男子の僧のこと)となるためには、男性としての機能を備えていなければなりませんでした。ホモの人や不能の人は出家を許されなかったと記録されています。
何故でしょう?



栄眞は、出家制度は人口政策であったと考えています。当時の仏教教団とは、人口を抑制するため、進んで子孫を残すことを断念した集団! ― というのは、少し過激な考え方でしょうか?

インドでは 愛カーマは人生の3大目的の一つです。また、子孫を残して後生を祀って貰わないことには、祖先の世界へ旅立てないというように信じられてもいました。

その中で、敢然としてその企てを捨てた人々、それが仏教の修行僧達であったように思えるのです。



しかし、在家の人には、恐らく別の教えが説かれたと思われます。だって、Dhammapadaにあるような厳しい禁欲の教えばかり守っていたら、やがて出家集団を養う在家がいなくなってしまうではありませんか。

少し前まで、栄眞はそのことに気付きませんでした。それから、人口爆発のインドと、少子化の進む日本では、この問題の取り扱いは同じではないだろう、ということにも。



DhammapadaXVI.220-221に対し 必死になって抵抗した学生たちの意見に、もう少し真剣に耳を傾けるべきであった、と今ごろ反省しています。彼女たちは在家菩薩の苦悩を代弁していたようなのに。

栄眞は 愛に生きるぞ! うんと愛しながら、しかも わずらいの絆が存在しない生き方、それを手に入れるぞ! だってプラトンいうところのエローティコス・アネ-ルである栄眞は、愛さずにはいられないのですもの。

(これは新しい女菩薩の誓願なのか、それとも単なる破戒尼僧の開き直りなのでしょうか? ウーン...)

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[ 参考文献 ] 『真理の言葉・感興の言葉』 中村元訳 岩波文庫 青302-1 \570

okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp