第2回 『愛は惜しみなく与える』
1999.1.10
その異なるヴァージョンの中には、兎を哀れんで焼き肉を食べられなかった仙人やら、仙人が実は帝釈天で、兎が大いに褒められたのやら、兎が月に生まれ変わったのやら様々あります。(余談ですが、栄眞の学界デビュー論文はこの「兎本生」に関するものでした。)
わたくしの博士論文 Dvavinsatyavadanakatha(ドヴァーヴィンシャティ・アヴァダーナカター)は22章からなる因縁物語です。そこにある全てのエピソードは、布施に関するものです。つまり「他生で・・・を布施したから、このような功徳を得たのである」あるいは逆に「・・・を惜しんで布施しなかったので、このような業報をえた」というような話です。
インド人はドケチだった?
このような布施を勧める説話はそれこそ数え切れないほど残っています。これでもか、これでもかと布施を説く経典群を見ていると、ははあん、インド人というのは余程ケチだったのだな、という気がしてくるほどです。さもなくば、坊さんが欲深で、沢山御布施を求めてあんなお経を作ったのかしら???
クリスチャンもケチだった?
ところが、このように布施の功Mを説くのはお経に限ったことではありません。聖書もまた、繰り返し繰り返し、「施し」を説いています。神はしばしば乞食に変装して、人を試しては、褒めたり叱ったりしていらっしゃいます。ユダヤ人も、クリスチャンもやっぱりみんなケチだったのですかね?
布施波羅蜜
「波羅蜜」は パーラミターの
音写語です。第1回で申し上げた「涅槃」の時と同じく、「波」にも「羅」にもまた「蜜」にも全く意味はありません。
「波羅蜜」が何を意味するのかは、
@最上、完成 A彼岸 つまり 覚りの世界に渡ること
という2つの違った解釈があって、実は、確定していないのです。こんな有名な言葉なのに不思議ですね。
「六波羅蜜」が一般によく知られています。覚りをもとめて大乘菩薩がする修行の6つの徳目です。その他に初期仏教の時代から「十波羅蜜」があり、部派仏教の時代には「四波羅蜜」も説かれました。しかし いずれの場合もその第1は、この布施波羅蜜なのです。いったい何故なのでしょうか?
続く 5つの波羅蜜は「持戒」、「忍辱」(自己に敵愾心を抱くものを忍び、困難に耐える)、「精進」(不撓不屈の精神力)、「禅定」(精神の集中安定)、「智慧」(それまでの波羅蜜から得られるまことの智)栄眞が考えるに、布施波羅蜜はだれでもできる徳目だからではないでしょうか。難しい知識がなくても、すごい体力がなくても、子供でも大人でもできることですもの。
しかも、布施することにより、執着が捨てられます。執着が心の苦しみの最大の原因であろうと言うことはすでにプレ説法で申し上げましたね。執着を捨てれば心が軽快になる。布施はそのための一番易しい訓練であると栄眞は考えます。
物でない布施
布施は金品に限りません。お掃除も立派な布施です。しおれたお花をかえることは勝れた布施である、とお経にあります。同様に、身の回りのお世話も布施です。みずからの労動力の提供は「捨身供養」という布施のひとつです。お父さんのパンツを洗っているお母さんは、損な役なのではなくて、日々大きな功徳を積むことができるチャンスを貰っているのです。
労働力・体力の提供と並んで、時間の提供というのも、中々に気付きにくく、為しがたい布施です。相手をどれくらい愛しているかということは、相手のためにどれくらいの時間を割けるかによって量ることができます。子供でも、おもちゃを買ってもらうより、一緒に遊んでもらう方が嬉しいときがありますね。忙しい中、暇を見つけて一緒に時を過ごすというのは、最高のプレゼントです。
また相手を保護し、安心を与えることを「無畏施」といいます。「この人がいてくれるから安らかに生きて行ける」と思わせる人は、この布施をしているわけです。
愛は惜しみなく与える
うさぎ本生は なかなか為しがたい、難しい捨身供養の話です。しかし、尊敬する仙人に
何か自分が布施できるものはないかと思っていたウサギは、喜んでただ一つの持ち物である我が身を施したのでした。
愛する人には、このように、何かをあげたい、何かをしてあげたい、と思うものです。それで喜んでもらえたら、それは幸せな気持ちになりますね。布施できることは幸いです。
okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp