第1回 『為すべきことは 為し終えた』
1999.1.3
ひきかへ 珍しきここちぞする。」(徒然草第19段)
『徒然草』(高校時代の愛読書でした)にある正月の朝、確かにそうですね。
12月31日と1月1日、何変わることないはずなのに、
元旦の朝というのは何となしに清々しく感じられるものです。
そこで今日はひとつ「死」について考えてみたいと思います。プラトンは「哲学をするとは死への準備を整えておくことである」と言いました。日蓮も「まず臨終のことを習いて」と言い残しています。
今年のお正月も、お檀家の2人の方が他界されました。おめでたいお正月に何を言う、と思われるかもしれませんね。しかし、キリスト教では天に召されるのはおめでたいことだし、仏教でも「死」は苦ですが、「涅槃」は永遠の安楽です。仏滅など、仏がお涅槃にお入りになった日ですから実は大いにおめでたいのです。
「苦しみの根は絶たれた。もはや再び迷いの生存を受けるということはない」
「四苦八苦 しくはっく」(『大般涅槃經だいはつねはんぎょう』2.3)
(*例えば、古代ギリシアの死生観をあらわす「シーレンとミダス王」の問答:シーレンはディオニソスのお供の妖精で、賢明であることで知られていました。ミダス王が苦労の末 これを捕まえて問いました「シーレンよ、人にとって最善であることは何か?」 シーレンは返答を渋りましたが、ついにはこう答えました「汝、偶然と苦しみの子たる人間よ、聞かなければよかったのに。人にとって最善のことは、生まれないことである」と)皆さんは死ぬのが怖いですか?(**インドでは、産道を通って生まれてくるとき余りに苦しいので、その時、前世の記憶をすっかり失ってしまうと考えられてきました。ローマでも、帝王切開の語源となったシーザーは、産道を通らずに生まれたのであのように優秀なのであると考えられていたそうです。
この生まれるときの苦しみについてはMinoru HARA, A Note on the Buddha's Birth Story, Indianisme et Bouddhisme; Melanges offerts a Mgr Etienne Lamotte, Publications de l'Institut Orientaliste de Louvain 23 (Louvain 1980) p.147 )
「栄眞、おまえは死ぬのが怖くないか?」と問われれば、わたくしは怖くない。死ぬことは怖くないけれど、死ぬときに苦しいのは怖い。とはいえ、その苦痛も必ず終わるときがあるのですから、なんと有り難いことではないかと思います。
(京都の父が亡くなるときにそれを痛感しました。)
3つの願いに何を選ぶ?
もし、いまわのきわに3つの願いを聞いてやる、と言われたら、わたくしはまず、「死ぬ苦痛がありませんように」と願いますね。
次に、「わたくしの愛する人が死ぬときに苦痛がありませんように」と願い、
最後は「わたくしが死んだら、全ての人の記憶から、わたくしの想い出が消え去りますように」と願うつもりです。
わたくしを愛した人が、わたくしの不在を嘆かなくてよいように。わたくしを憎んだ人が、憎しみを忘れるように。
栄眞の夢は、この生が終わるとき、きれいさっぱりと消えてしまうことです。覚った仏弟子達のように
「生存は尽きた。清浄行は既に確立した。為すべきことは為し終えた」と言って。
そしてそのとき、このホームページも忽然として消滅する! ― いかがですか?
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[ 参考文献 ] 『ブッダ最後の旅 ― 大パリニッバーナ経』 中村 元訳 岩波文庫 (1980)