『ひとりきりのとき人は愛することができる』
1998.12.27
実は、これはデ・メロというカトリックの神父さまの本の題名です。栄真尼の説法室に、いきなりキリスト教の神父様が登場したからといって、驚かないでください。これが、栄真尼の特長なのですからね。
突然仏教に帰りますが、ゴータマ・ブッダは、「人生は苦しみである」と説きました。このように人生を観ることを「苦観(くがん)」と言います。
いつもニコニコ楽しそう と言われている栄真尼もやはり、生きていくというのは苦しいことだ と思います。今日はそこで、「何故苦しいのか」 ― これをまず考えてみたいと思います。
肉体的な苦痛はともかく、精神的な苦しみは、殆ど一つの原因に帰すことが出来るのではないでしょうか。
殆どの苦しみは「自分の思い通りにならない」と思うことから始まります。欲しいものが手に入らない、大切なものが失われる、期待した反応が返ってこない、幸せな状態が持続しない、色々な苦しみがあるでしょう。
私達の心が「ああ、苦しい」と悲鳴をあげるとき、必ずそこには「執着(しゅうぢゃく)」があります。別の言葉でいえば「思い込み」「すがりつき」「しがみつき」。それを失えば不幸になると思い込んでいる何かへの強い思い入れ。そうでなければならないと自分が独り決めしていること。
どうでしょう、しかし、自分が今執着しているものは、本当に自分になくてはならないものなのでしょうか?
デ・メロは、わたくし達の頭の中に「一大プログラム」があると言っています。、それは、世の中がどうあるべきか、わたしはどうあるべきか、わたしが何を欲するべきかに関する一連のリストなのです。
「このプログラムの期待に添わないことがあると、わたしのコンピュータは、わたしを苛立ちや怒りや苦々しさで痛めつける」、と彼は言いました。
デ・メロは、自分が執着している人や物を一つずつとりだして、心の中で別れを告げようと提案しています。ひとりひとりに、ひとつひとつに、「ありがとう」と「さよなら」を言って。
そうすると、その痛みの中からなにものかが浮び上がってくるようですよ ― ひとりでいること。孤独。「それがどんどんひろがって、無限にひろがる空のようになる」
そして、すがりつくことをやめたとき、ほんとうに相手を愛せるようになるのだと、デ・メロは言いました。「ひとりきりのとき 人は愛することができる」というのはこういうことだったのです。
ある人が「生きるということは、確かめるということだ」と言いました。人は何かを確かめながら生きている、というのです。自分の力、自分の存在、自分が愛されているということを。ふん、ふん、なるほど。
それらが確かめられたとき、わたくしは「幸せだ」と実感しているようです。でも、わたくしがそれを求めなくても「確かめられた」と思えるときは訪れます。むしろ、求めないときの方が、より多く。
執着プログラムを止めた途端に、わたくしの愛するものは、わたくしの真ん前に立ったのでした。そして、すがりつかなくても、もうどこにも行きません。いつも、頭の上に大空が広がっているように。
[ 参考文献 ] アントニー・デ・メロ『ひとりきりのとき 人は愛することができる』(女子パウロ会 1994) \1,400
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