(2003.10.25更新)
そっと合掌
岡田真美子
「勝れた求道者は在家にとどまりながら執われの心がない。大悲を根本として家庭にあり、慈しみの心のゆえにつれあい、子に従い、心きよらかである。」
『華厳経』を読んでいたらこんなことばに行き当たりました。大乗の在家菩薩のあり方を巧みに説いたものです。世事に心を煩わされることの多い世俗の暮らしをおくりながらしかも執われなくきよらかな心を保っている、まるで泥田の中の蓮華のような存在です。そのような求道者が家庭にあるのは慈悲の故であるとされています。
人にプラスになるものを与えようという能動的な善意である「慈」の心。人のマイナス要因を取り除こうとつとめる「悲」の心。在家菩薩はこのような善意に富むゆえに家庭にありつつ求道に励んでいます。
在家菩薩が慈悲を及ぼすのは、もちろん自分の家族だけではありません。この気持ちをあまく生きとし生けるものに及ぼすことに精進しなければなりません。『倶舍論』には慈悲心をいたるところに向けるための訓練の仕方がかかれています:
まず自分が楽しいと思うこと、先輩求道者によって説かれる楽しさを思い浮かべて、「あまく生きとし生けるものに等しくこの楽しみをあじあわせたい」と思う。
「等しく」慈悲心をかけることができなかったらどうするか? 生きとし生けるものを身内と無関係な人と敵の3つに分け、まずごく親しいものから慈しみの心を起こし、それを次第に最大の敵まで広げてゆく。
これがうまくいったら、次はひとりに対してではなく、一村→地域→地方→世界に対して楽しみを与えようという心を起こす対象を広げてゆくと、あまねく慈しみのこころを及ぼすことができるようになる。
そして、次は、悲しみ苦しみを取り除く練習も同じようにしなさい、とあります。
自分の身内も敵も同じように慈悲を及ぼすことができるというのは余程執着心がないひとでないと無理だろうと思います。
最近宮元啓一先生の書いた「四無量心」というコラム(「仏教タイムス」2003/2/20)を読みました。「慈」「悲」「喜」「捨」という4つの広大無辺の心ばえのうち、「慈」「悲」と「喜」(ひとの喜びを自らのものとして喜ぶ心)は「他人にたいするべたべたした執着心に転化してしまう」おそれがあり、「捨」がそれを食い止める役割を果たす、とありました。捨というのはクールでタイトな心ですね。慈悲はこの捨と組になって本領を発揮するわけかと改めて感心しました。
ひとを喜ばすのが好きで、ひとが苦しむのは見ちゃいられなくて、ひとが嬉しいと自分も嬉しくなっちゃう共感力に富んだ情熱家であり、しかもすぐにカッカしたりおたおたしたりしないクールな人ーこのような菩薩の姿が浮かんできます。
さて、そのような菩薩のひとりに常不軽菩薩という方がいらっしゃいました。『法華経』に紹介されていて、宮沢賢治が大好きで詩にも書いた菩薩です。常不軽菩薩はあらゆるひとに対して合掌敬礼することを自らの修行徳目としていました。彼はどのような人にもそれぞれの尊さがあると信じたからです。誰に対しても合掌敬礼するということは簡単なようでいてなかなかできることではありません。まずあらゆるひとに尊敬の心を起こすことがたやすいことではありませんし、また尊重されたり敬礼されることに慣れないひとには尊敬の気持ちも受け入れられないことがあるからです。常不軽菩薩も、からかうなと痛めつけられたりしています。それでも彼はひるまず静かにあらゆるひとに合掌敬礼し続けました。あるがまま存在を肯定する、その生存を尊ぶ、存続を応援する―なんと慈悲心に富んだ行いでしょう。
黙々と合掌して歩く常不軽菩薩の姿を、私は日常ふと思い浮かべることがあります。職場で、家庭で、また通勤中の見も知らぬ人に対して、己れの思い通りにならないことから心がムラムラと騒ぐときです。そっと手を合せてみると、少し心が落ち着きます。
「初期仏教における慈悲は〈怒らない〉ということだったのですよ」横浜の早島鏡正先生を最後に訪問したときに頂戴したことばです。先生のご専門であったパーリの『清浄道論』には、怒りの心がやんで怒らないことが慈しみの心の完成である、と述べられています。「怒るな」これが私に対する早島先生の遺言になりました。
思い通りにならないことを怒るのは執着の心。行く雲のように流れる水のようにこだわらずひっかからずに人に接することができるようになれば、それは私の慈悲心の完成です。それまでまだわたくしは何千回もそっと合掌することでしょう。
(『在家佛教』2003年7月号)