(2003.10.25更新)

「少し坂道!―少子環境に向かって」

岡田真美子

 環境人間学部という新しい職場に移って5年目になりました。これまでの仏教説話を中心とした文献学研究から環境宗教学というものを創設して3年になります。

環境学の世界では、少子化よりもむしろ人口圧(人口増加による環境への圧迫)のほうが大きな問題です。(『在家仏教6月号』でも、才園哲人先生が人口爆発を切り抜ける手として「矮小遺伝子」を紹介した興味深い一文を寄せていらっしゃいます。)

これまで人類は、生存に適した環境を得て個体数を増やしては、食糧増産に励み、自らの生存圏を広げてきました。一方皮肉なことに、疫病や戦争は結果的には「過激な人口調節」となって人口圧の緩和を行ってきました。医学が進み、国際間の争いも以前のように地球規模で起こらなくなった現代、静かに進行していると思われるのが、晩婚化と少子化という「緩慢で平和的な人口調節」である と言えなくもありません。

一般に、少子化は経済的その他の理由で若い世代が子供を「産まない」から起こると考えられているようですが、実は不妊その他で「産めない」人が増えているという現実があります。経済が比較的安定している国の人口増加は鈍く、戦火や災害を潜り抜け劣悪な環境にいる人たちの多くが赤ちゃんを抱えているのです。経済の問題ではなく生物学の問題。自然は不思議な摂理に動かされています。

そのような中でわたくしたちが真剣に考えなければならないことは、少子化を防いで人口を増やす方策や、活気が出て大量に物が売れるようにするための対策ではなく、むしろ、少子化にふさわしい子供たちへの接し方や高齢者の健康な社会参加のための工夫、「もったいない」を基調とした経済の案出などであるようです。

これらの今日的な課題のうち、「もったいない」に関してはすでに『感性哲学1』(東信堂2001)に書きましたので、ここでは少子化の子供たちへの接し方について考えてみたいと思います。

先日姫路城の西南、景福山の懐にある名刹景福寺さんの付属保育園を訪れる機会がありました。園長さんは青山平立老師。奥様とお嬢様をはじめとする先生方が熱意溢れる幼児教育を行っていらっしゃいます。ここでわたくしはこの課題を解くヒントをもらったように思いました。

お寺の山門を潜って玄関を上がり通された部屋に一枚の写真がありました。川の浅瀬に並んで座っている子供たちの間に棒を持って仁王立ちの禿頭?すわっ、一大事!―いえいえ、これがうわさに聞いていた園児たちの水中坐禅でした。奥様の青山先生が説明して下さいます。「夢前町の河原で坐禅をしようと子供たちを連れて行きましたら、石が焼けて熱くてとても座っていられません。そうすると子供たちが『園長先生、水の中なら坐れるよ。気持ちがいいよ』と言い出しまして、それでこのような坐禅会が始まったんです」

警策を手にした気迫あふれる方丈さまと、真剣な、どことなく満ち足りた表情の子供たちの水中坐禅は実にさわやかな写真でした。

この園は、坐禅会のほかにも、幼児がここまでやるのかと思われるような演奏をする音楽会で有名です。ご挨拶もすべて合掌とともに! また、<前へならえ>をして並んでいる子供たちの姿勢の正しいこと。このようなことから「子供はもっとのびのびさせなければ」と園を批判する人もいると聞きました。

確かに、合掌を習ったとき、初めて坐禅をしたとき、合奏を練習し始めたとき、園児たちはちょっと戸惑い、少し大変だな、と思ったことでしょう。しかし園の人々のする合掌は実に自然で、子供たちはとても伸びやかな様子です。なにかをやり遂げるたびに子供たちは大きくなっていっているようです。   

「ちょっと坂道」と青山先生がおっしゃいました。「子供たちにただ平らな道ばかりを歩ませようとするのではなく、親も子もちょっと坂道を歩く」―それを聞いて、この坂道の「負荷」がわたくしたちに自己実現の喜びを与えてくれるのだなぁと感じました。

『学道用心集』にいわく「若し易行をもとめば、定んで実地に達せじ」。 稀少な子供たちだからと、なるべく困難を避けて平らな道をあゆませようとしがちですが、安らぎや、のびやかさを得るためにはただ楽チンを目指していてはだめなのですね。

20世紀、わたくしたちは「らく」と「便利」を求め続けた挙句、ますます多忙になり、また美しい環境を失うことになりました。これからは、ちょっと坂道。経済は右肩上がりにならなくても、心はちょっと坂道を登ってみてはどうかと思います。合掌しあう先生と子供たちと親御さんを見ていてそんなことを考えました。   

(『在家佛教』2002年10月号)


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