(1999.03.14更新)
 

 
第11回
『ゴータマの遺言』
 1999.03.14


栄眞がとても好きなお経にマハー・パリニッバーナ経というものがあります。
   マハーは漢字で摩訶と音写されました。意味は「大」です。
   パリは「完き」を意味する前綴り、ニッパーナは「涅槃」のことです。

ゴータマ・ブッダ(釋尊)が80歳のとき食中毒になって死ぬまでを書いたものです。


 その中に、ゴータマが教団においてどういう心構えで修行僧と接していたかを伺い知る事のできるくだりがあります。 (第2章25節)

       「わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
      完き人の教えには師拳(師匠が拳に握り込んで弟子に隠すこと)は存在しない」

分け隔てなく、出し惜しみすることなく教えを説いたということが言われています。


 続いて、ゴータマはこう述べています
向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
 あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない
ゴータマ・ブッダは、他の修行者達を、弟子ではなく、修行仲間と見なしていたことがわかります。

彼が他の僧達に向って呼びかけるときは「修行僧の皆さん」です。個人への呼び掛けは「アーナンダさん」とか「サーリプッタさん」と言う具合で、同輩に対し、敬意を払った形になっています。

ゴータマ・ブッダは、僭越な言い方ですが、わたくし栄眞の先輩修行者であるわけです。大変に尊敬する大先輩ではあっても、「信心する神さん」ではないのです。



「日頃信心する神さん」がない、というのは、ある時は不安なものです。だって「苦しい時の神頼み」ができないのですから。困った時、心配な時、「お助けください」と祈るべき相手は栄眞尼にはありません。

そんな不安な存在である後輩修行者のために、ゴータマ・ブッダはこのような言葉を残してくれています。(第2章26節)

「この世で自らを島 (or 燈明)とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず、
 法(=真理・教え)をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
「自燈明 法燈明」と訳されてきたことばです。病が篤くなって説かれたこの教えは、自分が亡くなった後 修行僧たちが 指導者を失って途方に暮れることがないように というゴータマの祈りを表わしたものです。
「今でも、また、わたくしの死後にでも、誰でも、自らを島とし、みずからをたよりとし、他をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、誰でも学ぼうと望むものは」
誰でも、そう努め、そう励めば、先輩ゴータマのようにブッダ(=目覚めたひと)になれる。これは力強い励ましの言葉です。


ゴータマは激しい下痢と腹痛のなかで最後の教えを説いた後、この言葉を残して亡くなりました。
「さあ、修行僧のみなさん、あなた方に告げましょう、
『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」
これが修行僧ゴータマ・ブッダの遺言でした。(第5章7節)


自分がコントロールできるのは自分だけです。他をコントロールしようと思うから苦しくなる。それなのに、どうかすると、自分を制すことはせずして、他を制そうとする。まだまだ栄眞も修行が足りません。

自分のコントロールが及ばぬ他をよりどころとするところから、失望や悲しみが生じる。当て外れ、期待外れ。このようなことを幾度繰り返したらよいのでしょう。

この大宇宙にひとつとして そのはじまりからあって、今も変わらずそのままあって、これからもずっとそのままあるものなど無いのに、もろもろの事象が過ぎ去ることを認めたくない。愚かしいとは思いながら、栄眞も変化すること、過ぎ行くことを悲しむことが止められません。修行が足りない!

でも、栄眞はあきらめていません。たくさんの失敗をするわたくしですが、ゴータマが言うように怠ること無く学ぼうと思います。自分と法をよりどころとして。

さあ、エイシン・ブッダというのは いつ誕生しますかな? お楽しみにね。

 

[ 参考文献 ]
『ブッダ最後の旅 ― 大パリニッバーナ経』  中村 元訳 岩波文庫 (1980)

  okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp    姫路工業大学環境人間学部   書写キャンパス
 
 
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