第5回 『惑わだかまり・結むすぼれ』
1999.01.31
「いい話を聞いた」と思う時は、殆どの場合、自分の中に既にあったものに行き当たった時。
自分の求めるものに行き当たらないときには、話を聞きながらイライラする。
栄眞もほんの少し前までそうでした。本を読んでも、テレビを見ても。
何でもないから何にでもなれる
神経生物学の山元大輔先生は
「何でもないから何にでもなれる」と言いました。将来の進路が未定の、何にでもなれる細胞
stem cell (幹細胞)のことを言った言葉です。(『脳と記憶の謎 遺伝子は何を明かしたか』講談社現代新書1351
1997年 660円 pp.210f)
おでんと幹細胞、なんの話? つまり、この頃やっと栄眞は蒸した大根のようになって人の話が聞けるようになってきたということ。
今までは「自分」というものを一生懸命守ってきました。自分の領界を侵されないようにとバリアを築いて。それが、最近相手の心の傍にそっと寄り添って、相手の出している「だし」を、すーっと受け取ることができるようになったのです。
おかげで、随分 楽になりました。人と一緒にいるのが楽しくなりました。話を聞いていて、「あらまあ」「ほほう」「なるほどね」「そうも行けるか」と思うと愉快です。
そんなにじっと守って、固まってなければならない自分なんてあるのでしょうか。わたくしはまだまだ幹細胞でいたいと思います。知らないことが一杯あって、知ることがとても楽しい。そんな自分でありたいのです。選択肢があれば、絶えず新しい道を選ぶ栄眞です。
惑結
仏教に「惑結」と言う言葉があります。西遊記のモデルになった玄奘三蔵の訳語です。心が自由になるのを妨げる「むすぼれ」「枷かせ」。煩悩とはそういうもののことです。(栄眞はだから「こだわりの一品」なんて言葉をみると、不思議な気がします。)
そんなものをさらりと捨てて、スカスカのお大根になったからといって、わたくしはなくなったりしません。バリアを止めちゃえるようになったのは、それがわかったからでしょうか。
最近「アカ抜けした」と言ってくださる方があるのですが、むしろ「アク抜け」したのでしょうね。