愛する人に逢えなければ人は悲しみに陥る。
そして心の統一を保つことができない
ところが逢えても、満足することはない。
渇望の想いによって同じように悩まされるからである。
かれは ものを あるが儘に見ない。
愛する人に逢うことを ひたすら望み
はかない生存を厭う気持ちを失う。
愛する人と ほんの暫く別れても 憂い
こころ焦がされるのである
このような想いにふけって、
かれの短い命は 刻々と 空しく過ぎて行く」(『ボーディチャリャ・アヴァターラ』8.6-8 )
上の文章は 今を去ること1300年あまり前、インドの南 サウラーシュトラ国の王子として生れ、出家したシャーンティデーヴァのものです。『覚りへの道』と題されたこの著作は、三蔵(お經の籠・戒律の籠・論書の籠)のなかの「論」に属すもので、ちゃんと大藏經に収められています。。
それにしても、なんと生々しい嘆きでしょう。シャーンティデーヴァも恋をしたのでしょうか。偉大な出家も恋をしたときは普通の少年と変わらないね。
すがりつき(執着)− 愛しているといいながら、わたくしたちは 愛する人を縛り上げ、自由を奪い、気に入った置物のように側に置いておきたがります。
どうして いつも いっしょにいたいのでしょう。その人のために 色々な快いことをしてあげたいから?
それなら、愛する人が ひとりでいたい時には 静かに ひとりに してあげられるはずですね。
でも、愛する人が 「少しくらい離れていたって平気。ほんのちょっとじゃない」なんていうと、とても辛くなる。−「この人 もう 私と 居たくないんだ」
恋人達は、逢っても 逢っても、満たされることはありません。それが「渇愛」です。しかし、焦がれて、渇して、むさぼっているうちに、何が起こるでしょうか?
シャーンティデーヴァは言わなかったけれど、そうするうちに、渇愛より恐ろしいものが訪れるのです。
Ich bin satt −「おなか一杯 」→ 「もう飽き飽きした」ー そう、「飽満」
こんな恐ろしい言葉を残した女性もいますのよ:
すべての愛は悲劇的である。 報いられた愛は飽満のうちに消え 報いられぬ愛は飢えて死ぬ。 ( ルー・ザロメー)
[参考文献] 『悟りへの道』<サーラ叢書9> (平楽寺書店) 品切 戻る
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姫路工業大学環境人間学部
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