栄眞尼の
 
電子説法室
 

第30回
 
 愛する人に逢えなければ
 
1999.08.22

愛する人に逢えなければ人は悲しみに陥る。
 
そして心の統一を保つことができない
 
ところが逢えても、満足することはない。
 
渇望の想いによって同じように悩まされるからである。
 
 
かれは ものを あるが儘に見ない。
 
愛する人に逢うことを ひたすら望み
 
はかない生存を厭う気持ちを失う。
 
愛する人と ほんの暫く別れても 憂い
 
 こころ焦がされるのである
 
 
このような想いにふけって、
 
かれの短い命は 刻々と 空しく過ぎて行く」
 
(『ボーディチャリャ・アヴァターラ』8.6-8 )

上の文章は 今を去ること1300年あまり前、インドの南 サウラーシュトラ国の王子として生れ、出家したシャーンティデーヴァのものです。

『覚りへの道』と題されたこの著作は、三蔵(お經の籠・戒律の籠・論書の籠)のなかの「論」に属すもので、ちゃんと大藏經に収められています。。

それにしても、なんと生々しい嘆きでしょう。シャーンティデーヴァも恋をしたのでしょうか。偉大な出家も恋をしたときは普通の少年と変わらないね。


すがりつき(執着)− 愛しているといいながら、わたくしたちは 愛する人を縛り上げ、自由を奪い、気に入った置物のように側に置いておきたがります。

どうして いつも いっしょにいたいのでしょう。その人のために 色々な快いことをしてあげたいから?

それなら、愛する人が ひとりでいたい時には 静かに ひとりに してあげられるはずですね。

でも、愛する人が 「少しくらい離れていたって平気。ほんのちょっとじゃない」なんていうと、とても辛くなる。−「この人 もう 私と 居たくないんだ」


恋人達は、逢っても 逢っても、満たされることはありません。それが「渇愛」です。

しかし、焦がれて、渇して、むさぼっているうちに、何が起こるでしょうか?

シャーンティデーヴァは言わなかったけれど、そうするうちに、渇愛より恐ろしいものが訪れるのです。

Ich bin satt −「おなか一杯 」→ 「もう飽き飽きした」ー そう、「飽満」

こんな恐ろしい言葉を残した女性もいますのよ:


すべての愛は悲劇的である。
 
報いられた愛は飽満のうちに消え
 
報いられぬ愛は飢えて死ぬ。
( ルー・ザロメー)

[参考文献]
『悟りへの道』<サーラ叢書9> (平楽寺書店) 品切

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okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp    姫路工業大学環境人間学部   書写キャンパス
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