栄眞尼の
 
電子説法室
 

第29回
 吹く風のように 流れる水のように
1999.08.15

「生きていて もしも 苦しまなければ
 
死の終りにおいても悲しむことはない」
(ウダーナ)

大学時代の友人から、久しぶりに電話が掛かってきました。素晴らしい奥様と可愛い子供さん達に恵まれ、すごい職場でバリバリ仕事をしている彼がこう言うのです
「ねえ、人生折り返しちゃった気がするね。もうね、死んじゃってもいいな って思うことがあるよ」
わたくしたちは、間はずっと疎遠なのですが、たまに話すと、いつもよく似たことを考えています。彼より3つ若いわたくしも、この3年ほど、そんな気がしていました。
ー「そうですね。美しく生きてるうちに死にたい、なんて思いますね」

「そうそう、幸せなうちにね」

なんて、不思議な会話をしました。わたくしたちは二人とも とても幸せな現在を生きているに違いありません。

二人とも、人も羨む環境にいるようです。努力が報われる幸せな環境。愛にも恵まれています。

なにも不足の無いような生活。ーーあまりに忙しいことを除いては。

その中で、どうもふと、自分の人生が重く感じられるようなのです。

求めてきた生活が得られて、満足なはずなのですが、それが、おもーく感じられることがある。

それは、立派に頑張ってきたな、と自分の頭を撫でてやりたい様な時に訪れます。「お前は よくやってるよ」そして、ふっと思う、「疲れたな」「もう充分かな」


苦をもたらす3つの「渇愛」の一つに「無有愛 vibhava」というものがあります。死滅への渇望。死の平安への憧憬しょうけい

これは、フロイトが <死の本能>(Thanatos タナトス)と呼んだものに近いのではないかと言われています。

人は <生への本能>(Eros エロース)と、無生物に帰ろうとする衝動、タナトスを併せ持っていると彼は述べました。

つい先日、このフロイトの考えは、仏教の「有愛」「無有愛」に対応させ得る側面をみせている と説いた論文を読んだところです。


栄眞は、これは中々に深い洞察であるな、と思います。死は怖い、しかし、同時に死に惹かれる気持ちも強い。

死を恐れるのは生に執着しているからです。この「生への執着」=「有愛」と 死に惹かれる気持ち=「無有愛」をわれわれは併せ持っている。ふむふむ、いかにも。

注意すべきは、生への執着を捨てた思いであるかのごとく見える「無有愛」が、実は、やはり執着であるということです。これは、たしかに、死への執着です。


吹く風のように、流れる水のように生きるのは なぜ難しいのでしょう?

なぜ いつも「この時間がもっと長く続くように」と祈り、「この時間が早く過ぎ去るように」と希うのでしょう?

今ひととき、今日ひと日、幸せで健やかなら それで いいじゃないですか。

幸せが続くことに執着するから、この幸せが崩れることが怖いから、ここで人生が終わって仕舞えばいい、と思うのでしょう。

そう思うのは、栄眞よ、おまえが臆病だから。おまえが疲れているから。死に執着することは、安らぎをもたらしてはくれないのに。


生きることに疲れ、生き続けることを恐れる人は、きっと、死ぬときも 恐怖するに違いありません。

涼風を身にまとい、流れる清水を両手に留めようとするのは虚しい。栄眞は風とともに駆け、流れに浮かんで、今ひととき、今日ひと日の幸せを味わいたい。

なにものも この身にとどめようとは望まず、人生を全力で駆け抜けたい。生きる時は生きることを慶び、死ぬ時は死ぬことを慶びたい。

今ひととき、今日ひと日、幸せで健やかなら それで いいじゃないですか。


災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候
 
死ぬる時節には、死ぬがよく候
 
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
( 良 寛 )

[参考文献]
杉本卓洲『五戒の周辺―インド的生のダイナミズム』
(平楽寺書店 1999) ¥5600

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okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp    姫路工業大学環境人間学部   書写キャンパス
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