1999.08.15 「生きていて もしも 苦しまなければ 死の終りにおいても悲しむことはない」 (ウダーナ)
大学時代の友人から、久しぶりに電話が掛かってきました。素晴らしい奥様と可愛い子供さん達に恵まれ、すごい職場でバリバリ仕事をしている彼がこう言うのです「ねえ、人生折り返しちゃった気がするね。もうね、死んじゃってもいいな って思うことがあるよ」わたくしたちは、間はずっと疎遠なのですが、たまに話すと、いつもよく似たことを考えています。彼より3つ若いわたくしも、この3年ほど、そんな気がしていました。ー「そうですね。美しく生きてるうちに死にたい、なんて思いますね」なんて、不思議な会話をしました。わたくしたちは二人とも とても幸せな現在を生きているに違いありません。「そうそう、幸せなうちにね」
二人とも、人も羨む環境にいるようです。努力が報われる幸せな環境。愛にも恵まれています。なにも不足の無いような生活。ーーあまりに忙しいことを除いては。
その中で、どうもふと、自分の人生が重く感じられるようなのです。
求めてきた生活が得られて、満足なはずなのですが、それが、おもーく感じられることがある。
それは、立派に頑張ってきたな、と自分の頭を撫でてやりたい様な時に訪れます。「お前は よくやってるよ」そして、ふっと思う、「疲れたな」「もう充分かな」
苦をもたらす3つの「渇愛」の一つに「無有愛 vibhava」というものがあります。死滅への渇望。死の平安への憧憬しょうけい。これは、フロイトが <死の本能>(Thanatos タナトス)と呼んだものに近いのではないかと言われています。
人は <生への本能>(Eros エロース)と、無生物に帰ろうとする衝動、タナトスを併せ持っていると彼は述べました。
つい先日、このフロイトの考えは、仏教の「有愛」「無有愛」に対応させ得る側面をみせている と説いた論文を読んだところです。
栄眞は、これは中々に深い洞察であるな、と思います。死は怖い、しかし、同時に死に惹かれる気持ちも強い。死を恐れるのは生に執着しているからです。この「生への執着」=「有愛」と 死に惹かれる気持ち=「無有愛」をわれわれは併せ持っている。ふむふむ、いかにも。
注意すべきは、生への執着を捨てた思いであるかのごとく見える「無有愛」が、実は、やはり執着であるということです。これは、たしかに、死への執着です。
吹く風のように、流れる水のように生きるのは なぜ難しいのでしょう?なぜ いつも「この時間がもっと長く続くように」と祈り、「この時間が早く過ぎ去るように」と希うのでしょう?
今ひととき、今日ひと日、幸せで健やかなら それで いいじゃないですか。
幸せが続くことに執着するから、この幸せが崩れることが怖いから、ここで人生が終わって仕舞えばいい、と思うのでしょう。
そう思うのは、栄眞よ、おまえが臆病だから。おまえが疲れているから。死に執着することは、安らぎをもたらしてはくれないのに。
生きることに疲れ、生き続けることを恐れる人は、きっと、死ぬときも 恐怖するに違いありません。涼風を身にまとい、流れる清水を両手に留めようとするのは虚しい。栄眞は風とともに駆け、流れに浮かんで、今ひととき、今日ひと日の幸せを味わいたい。
なにものも この身にとどめようとは望まず、人生を全力で駆け抜けたい。生きる時は生きることを慶び、死ぬ時は死ぬことを慶びたい。
今ひととき、今日ひと日、幸せで健やかなら それで いいじゃないですか。
災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬる時節には、死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 ( 良 寛 )
[参考文献] 杉本卓洲『五戒の周辺―インド的生のダイナミズム』 (平楽寺書店 1999) ¥5600 戻る okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp 姫路工業大学環境人間学部 書写キャンパス