栄眞の

電子説法室



第21回
 『信じるということ』
1999.06.13 
不思議なことですが、
ありのままの姿で愛されている時、

自分がなりうる最高の自分になれるのです

(デービッド・ランコーン)



栄眞は 相当のせっかちで、筋金入りの怒りん坊です。先週も、とあることで、トサカに来てしまい、「そんなことでは、××さんに対して不信感を抱いてしまいます」というメールを出してしまいました。

ところが、それを受け取った○○さんは、こう返事してらっしゃったのです:

「ねえ、岡田さん、人間に対しては不信よりは信頼の方がよい、のでは?」
まったく、目から鱗、でした。

そうです、栄真は、本来 無類のお人好しでした。「人の好いのも馬鹿のうち」と笑われながら、お目出度き人であることを止められなかった人間でした。それを全く忘れていた。わたくしらしくありませんでしたね。



ひとはそれぞれで、自分と違っていて当たり前。それを承知した上で、相手を信じて、相手のありのまま、そっくりそのまま丸ごとを大切にする。

わたくしはかつて自分の愛する人をそうすることができるようになって、やっと静かな、やすらかな心を得ました。(それまでは、「こうしてくれない」「こんなことをする」と、それは 様々に 心を痛めていました。)

そんなころ巡り合ったのが冒頭に掲げたランコーンの言葉でした。



ありのままの彼を愛するようになって、彼は我儘になったでしょうか? いえ、ところが 実は その逆でした。彼はそれまでよりずっと素晴らしくなったのです。

そして、月日が流れて、相手は日々変化しても、相変わらず、わたくしは彼のありのままを愛し、今も彼を愛しつづけているというわけです。(ね、あなた?)
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    信じるといえば、17歳のころ、こんな話を聞きました:

断崖絶壁から 今まさに落ちなんとしたところへ 上から するするとロープが降りてきた。

これがしっかり上で固定されたものか、或いは簡単に切れてしまうものなのか確かめ様もない。

そのロープに全身を預けてぶら下がるのが 「信心」 「他力本願」ということです。

栄眞は、『法華經』の「自力本願」をしこまれて大きくなった人間でしたが、このとき初めて、「他力本願」の凄さを知りました。何が何が、それは、ひとまかせの主体性の無い信心などではありませんでした。
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そこまでの一大事でなくても、兎に角、疑うより、信じるほうが、きもちがいい。

「信じましょう、取り越し苦労や、憶測はやめましょう」、そう思っただけで、なんと すがすがしい 爽やかな気持ちになることでしょう。

栄眞はやっぱりこの健やかな、軽い心がすきです。


[参考文献] ジーン・ワトソン『愛 The Sprit of LOVE』( いのちのことば社 1994 \700)

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okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp 姫路工業大学環境人間学部 書写キャンパス

 

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