第19回
『憐れみと施し』
1999.05.30
飽くことなく与えつづけて下さい。
しかし残り物を与えないで下さい。
(マザー テレサ)
阪神大震災の時、救援物資の荷物に、余り物の食料、洗濯もしていない汚れ物の衣類、使いかけの生活用品をごちゃごちゃにいれてあるものが かなり混じっていました。届いた善意の物資を種類分けして必要なところへ届けるボランティアをしていた学生たちは 大変困りました。
どんなものでも、そのお気持ちは尊いと思うのですが、それでも、布施をする心としてこれはどうかな? という気がします。
(それでも、災害ボランティアのときは、心構え云々をいわないで、兎に角参加、というところがあるかもしれませんね。)
仏教では、、与える人の心と、与えられるものと、与えられる人の三者が浄らかであるのがいい布施であるとされています。これを「三輪清浄」とよびます。残り物が浄らかでない、とは思いません。しかし、マザーがいうのは 「こんな人に与えるのは、もう要らないこれでいいだろう」というような思いで布施をするな、ということでしょう。
それでは与える人の心が浄らかであるとはいえませんもの。
残り物を与えるな、というのは、布施を受ける相手を敬まうように、ということではないでしょうか。施すことによって 時として 優越感を持つことがあるのを、マザーはこの言葉によって誡めたのだと思えます。
与えると言うことは、執着を捨てることと、他人を愛する慈悲の心を学ぶ一番の道です。
そして、この 愛するということは、相手の存在を尊重するということです。
自分の勝手で相手を愛玩するのは、愛ではありませんね。
ある日、私は道端で一人の男の人を拾い上げました。彼は排水渠のなかに落ちこんでいたのです。そこで私は彼を助け出して家に連れて行きました。
「私はずっと道端で動物のように生きてきました。
でもいま、私は天使のように死んで行くのです。愛され、大切にされて」2.3時間後に彼はその顔に美しい微笑みを浮かべてなくなりました。 (マザー テレサ)
マザーはそれを「貧しい人たちの偉大さ」と言いました。
彼はその天使のような死を迎えることによってそこにいた人々に大きな施しをしたのですね。
ハンセン病の療養施設 長島愛生園へ行って、ハンセン病に苦しんだ方々に会い、栄眞はそれを思わずにはいられませんでした。
病のために視力を失い、指を失い、家族を失った人々の、なんと明るく、優しかったこと。
苦しみを自らの力で乗り越えてきたその人々の心の なんと強いこと、大きいこと。
わたくしは、その後ろ姿に手を合わせずにはおられませんでした。
「栄眞、お前は貧しい。彼らは豊かである」そんな声が心の中で聞こえました。
そして、やがて、施しをうけたのは わたくしのほうであったことに気が付いたのでした。
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