自分は既成の宗教は信じない、信仰は持ってない、頼りにするのは自分だけ、と明言してやまない人が、時に縁起を担いだことを言出して 驚くことがあります。
毎朝テレビ占いを見てから大学に来る学生も少ないくないようです。20段階でその日の
運勢を示してくれるのだそうです。
年齢性別を問わず、みんな占いや運勢がお好きなようですね。
先週、占いと信心深さについてお話しました。あのあと、何人かの人と、運勢やおみくじや、占いについて話しました。やっぱりみんな好きなのだな、と栄眞は感じました。楽しいですよね、占いって。中に、「自分の周りを取り巻く流れが、自分をどんどん助ける方向に進む時と、どうしても、うまくないときがある」という人がありました。
自分の周りを取り巻く流れとは、「気」のようなものなのだそうです。「運気」とでも申しましょうか。これに乗っている時は何でも不思議なくらいうまくいくけど、逆の時は、「今日はいけないな、どうも何をしてもうまくいかない、気を付けよう」という風に自戒するのだと言われました。
「次の信号の青に間に合ったら、今日は○」なんてのをやることもあるようですね。「先生はそういうのはやらない?」と聞かれて、うーん、と考え込みました。
やらないですね、わたくしは。子供の時は、草履をポーンと飛ばして「明日は雨」とかやってたし、
遠足の前の日は <てるてる坊主> も作ったけれど。
どうも、わたくしには <いい運勢> とか、<悪い運勢> とかはないようなのです。別の言葉で言えば― そうなったことは、それがいいことで、そうならなかったことは、そうならないほうがよかったことである、そう思うのです。だから、いつもそれでいい。
「うまくいった」、「うまくいかなかった」と 思うことはわたくしだって勿論あります。けれど、うまくいかなかったときは、「うまくいかなかったほうがよかったんだ」と思えるのです。
わたくしの受けた苦しみや悲しみを知らない人は、「あなたは運がいいから」「あなたは幸せだからそんな呑気なことを言ってられるのよ」と言います。ほんとに、わたくしは運がよくて幸せですものね。
でも、こうなるまでには、考えてみると、少し時間がかかったようです。これは、いろいろな理不尽な出来事、沢山の悲しみ、次々に起こる思い通りにならぬこと、その果てにやっと辿り着いた結論でしたのよ。
18歳の時に結婚しようと約束した人と19歳で別れた時、
22歳で故郷を後にしなければならなくなったとき、
結婚後10年目にやっと身籠った子供をおなかの中で死なせた時(栄眞は人殺しだ!)、
父が70歳にもならずに亡くなった時、
大好きなおもちゃを壊された時、大切な宝物を取り上げられた時、
激しく他人に憎悪されたとき、愛する人の心が分からなくなった時
深い孤独の中で、「涙と共にパンを食べ(Goethe)」つつ、やっと辿り着いた苦しみの終点が「こうなることがよかったんだ」ということでした。
Nietzscheニーチェは Amor fati!(運命愛)と言いました。わたくしの好きな言葉です。 だから、わたくしは、占いをしません。運勢もどうでもいいことです。何が起こっても、静かに受け入れるだけです。時に涙と共にであっても。《すっぱいブドウと甘いレモンの論理》 *だとは言わないで下さいよ。それは単なる <負け惜しみ> ですから。
(*ブドウの房に飛びつき損ねて、「あれはすっぱいブドウだ」とうそぶいたイソップのキツネ君、或いは、すっぱいレモンを「これは甘いんだ」と自分に言い聞かせて騙し騙し食べる人のする合理化)
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