1999年1月3日発足。毎週日曜登場予定です。
2000.02.06
第49回「山川草木悉有佛性」
「これ一体どう読むんですか?」ーやまかわ くさき それで、えーっと…答えは「さんせん そうもく しつう(しっつう と読む人もいる)ぶっしょう」です
栄眞は、環境を勉強し始めた頃、仏典中に環境問題に力を貸してくれる思想がないかしら、と思って、自然観や生命観を説く章句を探し回りました。そして最初に行き当たったのが、この「山川草木 悉有佛性」でした。
つまり、山や川などの自然存在にも、草や木にも、悉(ことごと)く 仏となる性質がある、ということ。
動かぬものも、物言わぬものも、どんなものも 全て 仏となる性質を持っている。故に、なにものも粗末にしてはならない、という思想です。
この「山川草木 悉有佛性」という言葉は、『中陰經』というお経にある、と記されています。そこで、栄眞は書庫に入ってこのお経を捜しました。あった、あった、姚秦(ようしん)時代の竺 佛念じくぶつねん(竺がつくと天竺インドのお坊様だとわかります)の翻訳したお経だ。
さっそく引っ張り出して読んでみましたが… どこにもそんなこと書かれてないのです。2回読んでも、3回読んでも見つからない。うーん。
実はこれはインド人ではないお坊様の発明だったようなんですね。誰かはわからないんですけど。例えば、中国天台の 妙樂大師みょうらくたいし 湛然たんねん(711-782)の金剛べい(金へんに卑とかきます)にはこうあります:
「一草 一木 一礫 一塵。各一佛性 一本の草にも 木にも 一個の石ころにも 一粒のちりにも、おのおの 仏となる性質があるのだ。ここで言う佛性とは、いのちの素とでもいうのでしょうか。その理由は、草や木は 生えるし、枯れてなくなる、ちりや石ころも、劫という長い年月のうちにはなくなってしまうからである。」
インドでも、昔は 草や木が生きているものの仲間とされていました。意外なことに、大乗仏教が、当時の苦行主義を取りいれて肉食を禁じて草食主義になってからは、草木が生きていないものに分類されるようになりました。だって、慈悲の宗教が殺生していては拙いですからね。おかしいでしょ。お釈迦さまの頃は、お肉でもなんでも、乞食をしてもらったものは食べてたし、草木も生きてるものだったのですよ。生存は苦しみだ、といいながら、いのちをつなぐためだけに、痛みを感じつつ食べ物を食べてたのでした。(だって、食べ物って、皆、もとは生物でしょ)
ところが、インドの大乗仏教は僅かの例外を除いて、草木を瓦や、石と同じ無機物として分類しました。中国の一部のお坊さんはそれに反対したのでした。
それで「山川草木 悉有佛性」ですが、このことばの出所は、未だに、不明なのです。だれかそれを見つけたら、仏教研究における20世紀最大の発見だ、と言われましたが、20世紀にはついに見つかりませんでした。もうひとつ似たことばに、「草木國土 悉皆成仏そうもく こくど しっかい じょうぶつ」があります。(哲学的には、わたくしはこっちの方が上だとおもうのですが、今日のところはこれ以上この問題を論じません)どうも、これは日本のお坊さんの発明らしいのです。こっちも出所不明です。
そこで、日本には古来このようなエコロジー思想がある、これを思い出して環境破壊するのはやめよう、ということになるわけです。
さて、仏教関係の人の説く環境思想は、ここで止まっているのです。山川草木悉有佛性と人間以外の存在を尊ぶはずの日本人が、いま、なぜこのような環境に対して無神経な応接をしているのか、厳しく非難する人もいます。
この言葉を思い出すだけで十分なのでしょうか? そうじゃないんですよね。
では、栄眞はどうする? − ウーン。目下栄眞は悩んでいます。
だから、みんな一緒に考えてみてくださいね。どうしましょうね。
HOMEへ 注)このページの壁紙gif.は、小学生の広大くんが一生懸命作ったのを貰ったものです。
広大くん、ありがとう。 http://www2.memenet.or.jp/~koudai
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