心に納めて
(2001.08.10)
藪から棒の受胎告知に始まり、神の子であるイエスが十字架上で悲惨な死を遂げるのを見守るまでの三十数年間、マリアの生涯には、不可解なこと、「言えば愚痴になる」ことが沢山あったとおもうのです。マリアはそれらのことを「ことごとく心に納めていた」と聖書は記しています。(渡辺 和子)
ノートルダム修道院のシスター渡辺先生は、すばらしい宗教者です。受胎告知を「藪から棒」とお書きになったのにも驚きましたが、マリア様に「言えば愚痴になる」ことがたくさんあっただろうとおっしゃるのには、もっと驚きました。
受胎告知というと、フラアンジェリコの絵が思い出されます。あのマリア様は うつむいて じっと胸を抑えていらっしゃるけど、実際、天使さまが突然やってきて、「あなたは身籠りました」と言われたときのマリア様は、さぞかしびっくり仰天されたことでしょう。両手を天に差し上げて「おぉー。どうして?」というところ。
神の子イエスが 人々によって暴力的に天に返されるときも、マリア様はじっと胸を抑えていらっしゃったのでしょう。「ことごとく心に納めていた」姿です。
まだお嫁にもらう前の いいなずけが突然身籠もってしまったヨゼフもまた、言えば愚痴になることをじっと心に納めて生きた人だったようです。ヨゼフは一旦は静かに身を引くことを考えながら、未婚の母マリアを約束どおり嫁にしました。後には二人の間の子供もできます。いろいろあったでしょうが、ヨゼフがブツブツいったという伝承は残っていません。
「心に秘めて」ではなく「心にしまって」でもなく「心に納める」と 渡辺先生はお書きになってらっしゃいます。これは大切なポイントです。言えばやましいことを「秘密」にするのではなく、言えば愚痴になることを押さえつけて心に閉じ込めるのでもなく、すべてを納得して心に納める、のですね。すばらしい強さです。
唯摩ゆいまの 一黙 雷らいの如し(唯摩居士の 一瞬の沈黙は 雷のごとくであった)。―こんな沈黙もあります。沈黙する勇気。日々の暮らしの憂さに振り回されて、ついつい忘れてしまっていました。
言えば愚痴になることを心に納める勇気と、他人の沈黙のなかに納められた「言えば愚痴になること」を汲み取る思いやりを、絶やさず持ちつづけたいものです。
渡辺 和子(2000)『目に見えないけれど大切なもの あなたの心に安らぎと強さを』PHP研究所
\1,200 ISBN4-569-61376-4
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