偽善ということについて(2001年05月12日 土)
ハンセンの訴訟を見た若い友人が送ってきたメールに答えてー
ハンセンの方にお会いになれば、そのような「こころの構え」は吹っ飛んでしまいます。
我が目で見れば 外見がどうの と言うことは全く感じません。
強くて、明るいあの方たちには(そういう方だけが生き延びたのかもしれませんが)
お会いする度に励まされます。お気の毒なんて気持ちはなく、わたくしは深く尊敬しています。
訴訟をしたり、本を書いたりする方々は、西洋流人権意識の高い方、
訴えたいことがあるかたであるので、その面だけが表に出て人の目を引きます。
しかし、自らの意思で園に入り、それ以後ずーっと国家の保護で暮らしてきたとおっ
しゃる方もいらっしゃいます。(双見美智子さん長島愛生園) 園がわが人生であると。
一度 「講義録」の「フィールドワーク報告記」を見てみて下さい。
学生たちが愛生園を訪れたときの報告が載せられています。
お世話になっている中井榮一園長先生はインドに長くいらっしゃって、
マザーテレサの修道会とも協働していらっしゃった方です。
ヒンディーもぺらぺらです。
カントがGuter Wille ということをいいました。
「善良な志」もっといえば「善をやる気」でしょうか。
これのある人は偽善者ではないとわたくしは思っています。
あなたにはそのやる気がいっぱいあります。
そのやる気が純粋かどうか、なんてことをやかましくいうのは、「原理主義者」です。
多少のスケベ根性と自己満足が並存していたっていいではありませんか。
大切なのは、やる気があること、そして どんなに小さなことでもいい、
とにかく実際になにか行動しているということです。
自分が小さいかどうかは、自分では分かりませんよね。
わたくしが判定して差し上げましょう。
ふーむ、その志をみるに、あなたはなかなかの大人物ですぞ。
砂 時 計(2001年4月8日)
皆さん、目をつぶって見て下さい。そして、大きな砂時計を思い浮かべて下さい。
中には細かい砂粒がぎっしり詰まっています。黄金色、青い色、赤い色、好きな色の砂粒を思い浮かべて下さい。
学生の皆さん、その砂の4分の1は下に落ちています。
わたくしはもう半分より多くの砂が落ちています。
そしてその砂は止まることなく、さらさら さらさら落ちて行きます。いまこういう間もどんどんどんどん落ちて行きます。
これが命の砂時計です。砂がすっかり落ちた時、わたくしたちの命は終わります。
しなければならない仕事があるのに怠けたいとき、わたくしはこの砂時計を思い浮かべます。わたくしのステージはこの砂の残りだけなのに、わたくしはいったい何をしてるんだろうと。ああ、もったいない。
目に見えぬ貴重な命というものを、わたくしは こうして こころの砂時計をイメージすることによって測り、確かめ、感じ、愛しています。
バーミヤンの大仏の悲しみ(本を下さったHさんへ)
昨日京都出張に、頂いた『仏教文化の原郷をさぐる』(NHKブックス473)を持ってゆきました。 はじめのほうに、 玄奘三蔵の『大唐西域記』の一節 が記されていました。 以前何度も読んだものですが、梵衍那國の件に来て、新幹線の中で、不覚にも落涙し ました。
梵衍那國はご存知バーミヤン。大仏の破壊が終了したという報道のあった日 にこの文章を読むということは格別の経験でした。ご本を頂いたことに深く深く感謝 しました。
帰宅して『西域記』を読み返しました。 パーミヤンの国は 隣国より信心に篤くて、仏法僧の三宝から百神にいたるまで至心を尽くし て敬っている、と玄奘は記していました。 「金色晃曜 寶飾煥爛」と玄奘が記したあの大仏が、すでに破壊されたかと思うと、 今更ながら、「すべてのものは滅びる」というゴータマの言葉の重さを感じます。
この言葉遺言の前半。 後半は「怠ることなく 努め励みなさい」ですね。 滅びる、の原語は、anicca(無常<否定辞a + nitya“常住”)。不滅ではない、常 ではない。つまり、すべてのものは変化する、その変化に応じてわれわれは善く生き る努力をしつづけなければならない。だからおこたることなく よく生きる努力をつ づけましょう、ということです。覚っても、環境が変化する限り努力は続くわけで、 修行に終わりはありません。ゴータマも死ぬまで一修行僧でした。
大仏の破壊をみたら、ゴータマはきっと「造られたものは壊れる」という経文の一節 を語ることでしょう。そのことに煩わされてはならないと。
それでもなお、ゴータマを喪った仏弟子たちのように、堪えながらも、わたくしは悲 しみを禁じ得ません。「空間の履歴」(桑子敏雄先生)が失われてしまったからです。 悲しみとは喪失からおこる感情だそうです。
岡田は しかし、じっとニュースを見ていて、こうつぶやきました:「悲しければ また造ればいい。1500年後のために」 ―それを聞いて「ああ、ここに、すばらしい修行僧が居る、造られたものは壊れても、 こころは受け継がれる」と思いました。 01/03/13
若き友人へ(01/02/21)
ホドホドロジー/いい加減、がいちばんむつかしい。
ゴータマの菩提樹下の覚りのなかに、2つのantaを好まない
というものがあります。
antaは英語のendと同じ語源です。
つまり極「端」をこのまないこと。
これを「苦楽中道」といいます。 激しすぎる喜びも、強すぎる苦痛も求めないこと。
快楽に溺れることもなく、苦行に酔いしれることもなく、静かで
やすらかな心でいる ということでしょうか。
やわらかな かろやかな こころで 春に向かってあゆみましょう
! 栄真
sarasvati@indranet.jp