(226)                  印度學佛教学研究第47巻第1号            平成10年12月 
 

            仏教説話におけるエコパラダイム
 
                          ― 仏教説話文献の草木観と環境倫理 ―

                                 岡 田 真 美 子

 
1. 環境の定義 −環境主体は「有情」である

1.1 「環境」とは、一般的に「生命体を取り囲む自然の総体」或いは、「人間や動物
を取り囲みそれと影響関係を持つ外界」であると定義される。

1.2 即ち、現代の環境学において、環境主体はヒト・動物などのいわゆる「有情」
であって、植物や「非情」は常に環境の構成要素でしかない。植物は、神経組織や
感覚器官を備えていないとしてしばしば無機物と同等に扱われている。(注1)

2.仏教説話における草木観

2.1 生命体及びそれを取り囲む存在の枠組み(エコパラダイム)は時代・場所によっ
て様々に異なっている。一般的に仏教のエコパラダイムにおいては、環境主体たる
生命体(衆生)は動物のレベルまでで、中国・日本に至ってこれが草木・国土に押
し広げられた、と考えられている。

2.2確かに『大寶積經』などの大乘説話文献においては、草木は殆どの場合、瓦石
や牆壁と等価並列されて、無知覚・無感覚なものとして叙述される。(注2) はっきりと、
植物を生物(衆生)と区別した記述もある。 (注3)

また、後述するごとく,大乘説話文献・北伝文献においては、草木ならびに草木
に宿る神が前生話主体として登場することは皆無である。これらの文献において、
草木は生物であるとは考えられていない。

2.3一方、部派仏教の説話文献、特に律文献においては,植物は,一つの感覚器官の
みを持つもの ― 「一根」の生物とされている。五感のうち「触覚」のみあるとい
う考え方である。 (注4)

2.4しかしSCHMITHAUZENも言及している如く (注5)スッタニパータでは生物の種
類分けjativibhangam pananamの一番初めに草木が語られている。Mahavagga 9

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                                        仏教説話における エコパラダイム(岡田)                                     (227)

Vasettasutta.[601](注6) 初期仏教においては、草木を生きものと見なす考え方があった
ことがわかる。

3. パーリジャータカの草木神本生

3.1 さらに、パーリジャータカに存在する草木神本生群には注目すべきものがある。
説話中で釋Hの前生とされるものは、やがて後生に成仏するということになる。即
ち草木神には、間接的に佛性ありと考えられるわけである。

3.2 草木そのものの本生話は、全仏教説話中に未だ一編も発見されていないが、少
なくとも菩薩が草木に宿る神であった話は、パーリジャータカには存在している。
ここで特筆すべきは、パーリジャータカ以外にこの草木神本生(=「草木神は私(=
釋H)であった」というidentificationがある説話)が存在しないことである。 (注7)

3.3 筆者の調査では、パーリジャータカ中には、釋Hの前生とされる草木神が登場
するものが31話あり、それとは別に仏弟子の前生であるとされるものが3話ある。
(注8) それらのうち23(注9)は,樹神が全くの事件の傍観者ないしは目撃者にすぎず,大
きな意味をもたないので、3.5以降で扱わない。

3.4 これら34編の草木神本生には、わずか7(注10)を除いて、他の文献に全くパラ
レルがない。また7例のパラレルにも、殆どの場合,草木神は登場しないし,全く
identificationはない.草木神本生はパーリジャータカ独自の説話であると言ってよ
いであろう。

3.5 草木神本生をもってパーリジャータカの草木観を考える時、「草木神」はあく
までも神(devata)であって「草木」とは別ものではないかという疑問が予想され
る。これに答えるために次に3.4で述べた「傍観者としての樹神」の説話を除いた、
8つのジャータカの内容を検討しよう。

3.6 パーリジャータカ中の8つの草木神本生は次の表のとおりである:

 
J 18 その場所に 
うまれた樹神
空中に坐って不殺生を説く説法をし、生け贄の災いを知らせた
J 19 カーシ国の村の入り口にたつニグローダ樹の神  樹のまたに立って供犠祭が悪業であることを説き人々に殺生を慎ませた
J 74 ヒマラヤ地方のサーラ樹の森の賢い樹神 一族を自分の住まいを囲むように住まわせ、寄りあって家である樹を守った
 

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J109 ごまの木の樹神  お供え団子を捧げさせ、貧しい男に樹を守らせて彼に栄達を得させた。
J272 賢明な樹神 ライオンとトラ(舍利弗・目連の前生)の存在が、森の伐採・開墾を妨げていることを知っていた
J412 コーティシンバリ樹の神  取るに足りない小鳥の糞からも、異なる種類の樹が生えてそれが奢る事があれば 元の樹が枯れてしまうことを恐れ コーティシンバリ樹を守るため鳥を追い払ってもらう
J465 バッダサーラ樹の神 宮殿の柱のために樹が切られる事になり、別の樹に移るよう祈られるが「住居(樹)の終わりはわたし(樹神)の命の終わりだ」と考え、彼の元で「安楽に繁っている親族」を守るため王に教戒する
J121 草の神クサ草の茎に宿る神 菩薩は樹神より一段劣る草の神であったが、ムッカカ(お頭)と呼ばれるルチャ樹と親しくしていた。この吉祥樹が切り倒されそうになり難儀して助けを求めた時、それを知恵で救った
 
 3.7不殺生を説くJ18,19の他6話の草木神は皆,動物が身体を守る如くに草木を守る
ものである.特にJ.412,J465バッダサーラ樹神本生は草木神と草木の密接な関係を
示して重要である. (注12) パーリジャータカの草木神はこの様に草木を身体として有
し、海神など他の天部の神々とは全く異なっている. (注13) このように草木神を立てる
ことによってパーリジャータカは草木を、生命体のパラダイムに包含していた
と考えられる。

   4.不殺生が支えるエコエシックス

4.1 世界は、生命体である「有情」と、常にその環境でしかありえない「非情」と
から成り立っている。不殺生(注14)は、自分以外の環境主体たる生命体(衆生)を保
護する根本原理であると言ってよいだろう。

   一方、 非情環境の保護は環境主体の利益のためのみに行われていると考えられる。つまり草木、植物は、これを「非情」であるとするならば、不殺生戒によって

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                                            仏教説話における エコパラダイム(岡田)                                  (227)

守る必要はなくなり、 我々有情は自利のために心の痛みなくしてこれを利用する
ことができることになる。

4.2これとは異なったパラダイムで草木を捉えたものが、パーリジャータカの草木
神本生であり、湛然に代表される中国天台の草木成仏思想(注15)であった。我が国に
は加えて「国土成仏」の伝統がある。これら草木・非情をも環境主体と見、慈悲を及
ぼして保護する対象とする環境倫理の底流が、 既にパーリ仏教に存在していたこ
とはきわめて興味深い。共生という新しい価値体系の構築が 強く要請されている
現代、この仏教のエコパラダイムは先駆的な意味を持つと同時に、我々に有益な視座を提供するものである。

__________________
1) cf. James Jerome GIBSON (1979)The Ecological Approach to Visual Perception, Boston. I.1

2) 例えば「身如草木瓦石影像 無覺無知」(『大寶積經』富樓那會第十七之二 具善根品
 第四 羅什訳 No.31011.443b11)。殆どがこのようなコンテクストで出てくる。

  『寶積經』中では例外として次の2例があるのみである(1(世H又如)一切種子
 木叢林 皆依大地 而得生長(卷第百十九 勝鬘夫人會第四十八 菩提流志訳
 11.675a8f)(2)「彼時 三千大千世界所有 卉木叢林 皆向菩薩傾靡 亦如我昔 證菩
 提時 一切草木 傾向於我」 (卷第十九 不動如來會第六之一 授K莊嚴品第一 菩提
 流志訳 11.103b18-20);
    後者のパラレルとして見出したもの:「世H初成佛…須彌諸山王 草木叢林等 一切
 皆稽首(『方廣大莊嚴經』卷第九成正覺品大No.187.4.596c20-21);「得成佛已
 情非情 於佛行時 皆悉傾側 低頭禮敬(『菩薩本生鬘論』卷第四 稱念三寶功M
 DN第十二 No.160.3.343b6-7);『過去現在因果經』(No. 189.3.648c15ff)及び
 『佛本行集經』(No.190.778c28ff)では「草木」ではなく「樹神」になっている.

   今一つの例外として,Sy?maka(S?ma)j?takaの漢訳中,釋H前生のE仙人が射殺
 されたとき,草木が声を上げて泣いたという記述がある:「草木蕭蕭 有聲」
 (『六度集經』(43)大No.152.3.24c12);「草木蕭蕭 有人聲」(失訳『菩薩E子經』大No.
 174. 3.437b20);「草木蕭蕭 有聲」(聖堅譯『E子經』大No.175.3.439b12;441a26;
 443a14-15) この説話のこれら以外のパラレル(cf.拙稿「R?strap?lapariprcch?中の釋H
 前世50話」p.586)にはこの件がない。

3) 又如大地 荷四重擔 何等爲四 一者大海 二者諸山 三者草木 四者衆生(勝鬘夫
 人會第四十八 11.674a11-13

4) cf. Minoru HARA (in press), A Note on Concepts of Plant and Tree (3-1).同論文の(3-2)
 には、Mbh.では草木にも五根ありとされていることが紹介されている。

5) Lambert SCHMITHAUSEN(1991) The Problem of the Sentience of Plants in Earliest
 Buddhism, Studia Philologica Buddhica Monograph Series VI, The International Institute for
 Buddhist Studies, Tokyo. 22.1.2
6) これの注釈書であるパラマッタ・ジョーティカーには「意識のない(an-upadinnaka)

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 〔生物〕について説き始めた」とある。(『仏のことば註() ―パラマッタ・ジョーティ
 カー―』村上真完・及川真介訳注 春秋社1988 p.344

7) 漢訳本縁部においては、草木神=釋H前生の説話がないばかりでなく『賢愚經』 (31)
 月光  王頭施品 第三十中の樹神が目連であるとされる(「時 樹F者 目G 是」
 大No.202     IV.390a-b慧覺 445年訳)以外草木神に関して全くidentification無し

8) 樹神=仏弟子前生(3つとも干潟本生経類照合全表の本生索引に出ない): J414 ウッ
 パラバンナーの前生 J493 サーリプッタの前生 J537 カッサパの前生

9) J13(森の神) ;J 38 ;J102/J217;J105;J113;J139;J187;J205;J209;J283/J492;J294;
 J295;J298;J307;J311;J361 (律文献にパラレルが有るけれどもいずれも草木神登場せ
 ず); J400 ;J419(干潟索引では「山頂神」とされているが、実は山頂に生えた樹の神で
 樹神); J437 (「森の老木に生まれ変わった神は私であった」とあるが本文に全く登場せ
 ず); J475 J520

10) J38 ; J105 ; J187 ; J294 ; J361 ; J400 ; J412

11) @翻訳書に見られる「クサ・ナーリ樹」という訳はおかしい。「クサ」はあくまでも
 「草」である。ルチャ樹は クサ・ナーリのことを、偈の中で nihinako”(劣ったもの)と
 し、散文部で hino pi pandito mitto katabbo劣ったもの 賢い友となすべきである)
 語っている。A一般的にrukkhadevata Schmithausenや一部翻訳者の如くに「樹の神」
 と訳す必要はない(ウッパラヴァンナーの前生である場合を除く)ここでも樹神を男
 性形で受けているBodhisattassa tena saddhim mittasanthavo ahosi. し、またこの樹は
 「mukkhako」と男性形で呼ばれている。

12) cf. Schmithausen ibid.p.15Buddhist texts like the Bhaddasalajataka where the
 tree deity shows characteristic features of a tree soul since she(or he?) is so closely
 connected with the tree she inhabits that she has to die when it is felled.

13) 草木神以外にidentificationのあるdevataの説話としては「海神本生」「河神本生」が
 ある.海神については次の7話を見出した. J14/J190/J296/J442(IV.17-22) およびJ539
 の海神は共に天女Manimekhala(Uppalavanna前生).漢訳中 海神=釋H前生の唯一の
 例として、『摩訶僧祗律』  東晉 佛陀跋陀羅、法顕416-418大No.1425.22.260a8-c13が
 ある。海神=離越(Revata)比丘:『賢愚經』(40)大施抒海品第三十五 慧覺等445年訳
 大No.202.4.404b17-409b2。また河の女神はJ511(Uppalavanna前生) .これらの海神や
 河の神は、海や河に宿っているのではなく、単なる警護当番にすぎない。つまり,海や河
 そのものを守るのではなく、海や河で衆生が危難に遇わぬように見張る番人である.

14) 實は、「不殺生考」において、仏教を含む古典インドのエコエシックスの基本に
 「不殺生」があることを指摘し、その実践を可能にする原理としてvrtha(“濫に、徒に
 )の概念を打ち出した (『国際仏教大学院大学研究紀要(第一号)1998.3. pp.256-292.)
 特にvrthaの概念の指摘は、Schmithausen(1991)39.2に文献的裏付けを与えたものとし
 て意義深い。

15) cf.湛然(711-782)『止觀輔行傅弘決』,『金剛@』

(文中敬称略)
〈キーワード〉エコパラダイム, 草木観, パーリジャータカ, 環境, 草木神本生
(兵庫県立大学教授 , Dr. Phil. (Bonn)
−281−

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