JSPS
人文・社会科学振興プロジェクト研究事業

岡田のシンポジウム報告

関 西 人 社

日 時:

2007年7月7日(土)14;00〜17:00

場 所:

立命館大学衣笠キャンパス

題目:アマチュアリズムという楽しみ 趣味の公共性

司会

 吉岡洋(京都大学)

企画趣旨説明

 サトウタツヤ(立命館大学)

話題提供

岡田真美子(兵庫県立大学)

  宗教におけるアマチュアリズムの意味

平川秀幸(大阪大学)

科学(史)における専門性とアマチュアリズム           

田垣正晋(大阪府立大学) 

 障害者施策の住民会議におけるアマチュアリズムの功罪

−近畿地方の自治体におけるコーディネートの経験から

岡田暁生(京都大学)

 アマチュア音楽家の領域 

−公共圏と親密圏の媒介としての趣味音楽を楽しむために

趣旨:

 日本学術振興会/人文・社会科学振興プロジェクトでは、人文社会科学や芸術と社会のあり方について多くのプロジェクトを展開してきました。今回は関西地区で活躍するメンバーを中心にシンポジウムを開催します(結果として領域横断にもなっています)。

 今回のシンポジウムでは、専門性や規格化とは別のベクトルから、社会活動や専門的知識と社会のあり方を考えてみたいと思います。

 アマチュアリズム・素人性というと低く見られがちですが、個人的な楽しみ、報酬を要しない活動だからできることもあるはずです。

 今回は、音楽、科学、宗教、社会政策、という領域において、良い意味でのアマチュアリズムはどのように存在しうるのか、を検討していきたいと思います。

 私たちはもちろんある分野の専門家ではありますが、他の多くのことについては素人でもあります。「素人性・アマチュアリズムの発露」という社会提言を行うことがこのシンポジウムの目的です。

 岡田暁生さんには、ともすれば規格化され技術重視になりがちな音楽演奏を、一人一人の楽しみの復権という観点から論じてもらいます。

 平川秀幸さんには、制度化が進む以前の自然科学における知識生産のあり方について、今日のビッグサイエンスのあり方などと照らし合わせながら論じてもらいます。

 岡田真美子さんには、宗教の世界におけるプロとアマチュアの存在。新しい宗教を開いてきたアマチュアの存在、日本中世から連綿と継承され、また現代再生しつつあるアマチュア宗教集団「講」の話などをいただきます。

 田垣正晋さんには、社会福祉政策のための住民会議において−時間や労力をさいて−市民参加者が求めていることは何なのか、どのような立場で行政側や専門家に何を訴えているのか、という観点からお話をいただきます。

 最後の討論では、小長谷有紀さんからは博物館のあり方、***さんには**という観点からお話をいただきます。また、ごくごく個人的な営みである「趣味」と「公共性」が結びつくことはありえるのか、あるとすればそれはどのようになのか、ということを考えていきたいと思います。

人文・社会科学振興プロジェクト研究事業については下記サイトをごらんください。

http://www.jsps.go.jp/jinsha/index.html
  文 サトウタツヤさん

城山さんのコメント

1.政治学との関連で

 政治の世界はプロとアマを気にせずにいられない。選挙があるということは制度的にアマが担保されているといえよう。アマは公人であってほしいという希望もある。

 ソフトニュースはそれなりの関心と常識で判断すると意味がある。アマが本質を理解するメカニズムもある種働いているのではないか。

2.科学と芸術の距離のとり方は政治とそれぞれとの距離のとり方は似たところがある。

 「信教の自由」「研究の自由」「表現の自由」というように線引きをしてきた世界。
 あえて線引きしたのは公共性を守りつつ公権力が入ってくることをさけようとしたから。

3.研究者としてのアマとプロ

 苦行としてする研究というのは歯車としての仕事になる。本当の研究者としての創造的な仕事はそれではないだろう。

 「翻訳者」としての機能(審議会などの仕事)と先端の研究者としての機能は実はあまり切れていないのかもしれない。 

吉岡さんのコメント

アマチュアはもとイタリア語のアマーレ(愛)からきているのに、この200年くらいの間に、次第に、下手、というようなニュアンスを持たされ、公共性と隔てられるようになってきた。

もともとアマーレは公共性なしに個人だけでは成立し得ないもの。

びっくりしたこと、おもしろかったこと

 平川さんのお話中、scientistの誕生は1834年だとあり、また岡田さんは指揮者がでてきたのも19世紀だとおっしゃった。

19世紀はいろいろな分野で産業革命があったということらしい。





 岡田さんのお話の中には面白いプロットがいっぱいあった。

 ・19世紀はじめて指揮者が出てきたのはアンサンブルが大きくなり過ぎて外部に司令官を置いて全体を従わせないとまとまらなくなったため。

 ・アンサンブルは幸福なコミュニケーションの形態

 ・指揮者は変に自発性を促すとうまく行かなくなるところがある。
 ・公権力の及ぶ範囲が公共性の空間であると思っているが、これは違うかもしれない。
 ・趣味の中にこそ公共性が花開くともいえる

 ・集団の数を増やす瞬間この公共性のある幸福なコミュニケーションは壊れる。
  オーケストラなら10人を超えると壊れる。みんなのパートに目を配れなくなるので。
  (岡田cf.スチュアート・カウフマンの接続数のゴールデンポイント)

 ・大学は目の肥えたアマチュアを育てるところでもあるのでは
 
 
岡田さんのアンサンブルは幸福なコミュニケーションだということばがあったが、
 今日のもうひとつのテーマはコミュニケーションであったと思う。


 田垣さん
がさまざまな福祉系の公的な会議の座長などをされて感じられたのは、

 ・特に障害者関係のときは、他の障害には口を出さない。
 ・専門性がますほど、それは高まる。
 ・と同時に、人が話をしているときには聞かないということになる。
 ・専門性が増すほどコミュニケーションが難しくなるのか。

 京大の学生さんの質問「他分野に興味を持つことは重要だが、これが単なる教養主義に陥らないためにどうしたらいいのか。異なる専門の人が集まれる場を作ることが必要か」

 わたくしの答え:

 場が必要というのに賛成。それに加えて必要なのは、その場で異なる分野の人と幸福なコミュニケーションができるということでしょう。
 単に他の分野に興味を持つというだけではだめで、平川さんがおっしゃったような、自分で知らないことをもっと調べようとする能力がいると思う。
自らの中で融合することのできる人がお互いを聞きあってコミュニケートできることと、融合の場を作ることの二つがいるのではないでしょうか。

岡田先生のアンサンブル10人説はネットワーク学に関しても有益なサジェスチョンとなりました。大変有益な関西人社講で、感謝しています。


芦谷、合田、和ア、神頭、古賀の面々
 
2007年07月07日 20:41:31・

(c)2007 Prof. Dr. OKADA Mamiko