しんしん記(2004年下半期執筆)
「金楠烈塵」名義で、朝日高校文芸部の機関誌『朝日文学』に掲載された。(詳細は『自殺志願』の解説で述べる)
これまで殆どの作品が一人称小説であった僕にとって、この小説は三人称小説の手法を初めて獲得できた重要な作品であり、長編『夢遊という散策』への大きな布石となった一篇である。夢野久作と坂口安吾の影響を、ようやっと消化しきれた感がある。
1
秋が来ると、トトとヒョ−ロクは忙しくなるのだった。食べ物が沢山有る間に、冬を乗り越えるのに足りる分、集めておかなければならなかったからだ。トトとヒョ−ロクは、山の奥深い所に住んでいた。そこでは冬になると、雪以外のものがすっかりこの世から姿を消してしまう。そして2人は、ただ雪にうずもれたままで、じっと息を殺して春を待つのだった。
毎朝、トトとヒョ−ロクは川へ行って、しかけておいたワナを引き上げて回った。うなぎだの魚だのが、大漁と言うほどでもないがかかっていて、トトは手際よくそれ等をびくの中へ放り込んでいくのだった。トトはまた、家の裏の木立へわけ入って、キノコを採りに行きもした。これはまだ、ヒョ−ロクが手伝えない仕事であった。何百もあるキノコだ。毒のあるなしを見分けるのは年季の入った山男にしかやれない。毒キノコを喰らってしまうと、どんな恐ろしい目に遭うかは、ヒョーロクはトトからうんざりするほど聞かされていた。
家へ戻ると、トトとヒョ−ロクは手分けをして、採って来た食べものを腐らないようにする。キノコは焼酎の瓶へ入れて、漬けておく。魚は、ハラワタを取り除いて、空っぽになった腹の中へ飯粒をつめこんで、そしてタルの中へ入れておく。こうしておけば、うまいスシができるのだ。或いは、いろりでゆっくりいぶした後で、天日干にする。そうすれば、たいそうしわい(固い)干物が出来上がる。
そうやって、トトとヒョ−ロクは暮らしていた。ヒョ−ロクは生まれてから1度も山を下りたことがない。この人里離れた一軒屋と、空と、山と、川と、風だけがヒョ−ロクの世界のすべてだった。トトは時おり、薪を売りに山を下りることがあった。険しくてややこしい山道を、柴やら炭やらを背中いっぱいに背負って歩いてゆくのは大変なことで、ふもとへたどりつくまでにたっぷり半日はかかってしまう。そしてトトは町へ行って薪をたたき売り、いくらか手にした銭を懐に農村に立ち寄り、米を買うのだった。本当は酒も買いたいのだが、なかなかそうはいかなかった。
カカは、ヒョ−ロクが物心つかない内に、死んでしまった。ヒョ−ロクは、それが悲しくてたまらなかった。ヒョ−ロクは、カカの顔も思い出すことができなかった。
「何でカカは死んだんじゃ」
小さいころ、何度もヒョ−ロクはそう言って、トトに詰問した。トトはただ、「わかんねェ」と答えるだけであった。その答えにヒョ−ロクは癇癪を爆発させ、まるでトトが殺したかのごとく、彼を責めたてるのだった。
ある程度大きくなると、もうそんなことはしなくなったが、ヒョ−ロクはやはり心に開いた穴が埋めがたいものであることを感じていた。ヒョ−ロクは片時も、言いようのないさびしさとむなしさを忘れられたことがなかった。
ただ、母が彼を呼ぶ時の「ヒョ−ロクや」というやわらかな声――それに、その胸へ抱かれた時のあたたかさ――は、かすかにヒョ−ロクの心の奥へ残っていた。それは、思い出そうとすればするほど、つかみどころのなくなる思い出であった。しかし時たまではあるが、自分が赤ん坊に戻ってカカのうでの中へいる夢を見たなぞは、そのやわらかな声とぬくもりを、何よりも確かなものとして感じることが出来た。それはこの上なく幸せなことだった。
そんな風にしてヒョ−ロクは生きていた。
そんな風にしてトトとヒョ−ロクは山の奥深くで日々をすごしていた。
ところでトトとヒョ−ロクのくらす山には、奇妙な言い伝えがあった。それは、雪の降る冬の夜に畜生の肉を喰うと、幽霊が出る、というものである。がために村人たちは冬になると絶対に肉を喰らわなくなるのだった。ヒョ−ロクもこの言い伝えをたいそう恐れていた。ヒョ−ロクがまだ四つの時、里からやって来た置きぐすり屋が、この言い伝えを信じずにいたために痛ましい末路をたどった侍のはなしを、ヒョ−ロクに語ってきかせたからだった。
こんなはなしである。
それはそれは昔のことでございます。ある一人のお侍さまが雪の降りしきる夜、この辺りの山道を歩いておいでになりました。ただでさえ急で入りくんだ道であります上に、風も出てまいりまして、かじかんだ手足がだんだんと辛くなられまして、どこでもよいから家の灯が見えたらば一晩泊めてもらおう、と思いつつ歩みをお進めになられておりました。ところでこのお侍さまには一つ、奇妙な癖がございました。それは、あまりに月の美しい夜ですと、ムラムラと何とも言えぬ気もちが湧き上がっておいでになりまして、辻斬りをなさってしまうのです。刀が生身の人間の肉へ喰いこむ時の手ごたえ、ほとばしった血しぶきが月光にキラキラと照らされるその美しさ、そうしたものがお侍さまにはたまらなく愛しく感ぜられるのでした。そうやって美しい月夜になると辻に立って道ゆく人を一刀両断になさり、今までに何十人、いや何百人もの首を肩の上から地面の上へとタタキ落とされておりました。
さて風はいっそう激しさを増し、足元は重たいぼたん雪でうめつくされつつあります。これは困った、お侍さまは思いました。早く山小屋の一軒でも見つけねば、凍えて死んでしまう。
と、そのお侍さまの目の前を、黒い影が横切りました。お侍さまは何者だと刀のサヤを払い、これを真っ二つに斬りました。黒い影はギャッとばかりにぐるんと空中でひと回りして、ドサリと地面へ落ちました。それは一匹のタヌキでありました。お侍さまは拍子抜けなさって、カラカラとお笑いになりました。なんだ、タヌ公であったか。物の怪の類かと思ったわ…。
と顔を上げると、少し先に灯りが見えました。これは助かった。そうだ丁度いい、これを手土産に、とお侍さまはタヌキの死体を持って、その方へ足をお進めになられました。
家の主人は、一晩泊めていただきたいと言うお侍さまの申し出を受けて、それはお困りでしょう、さぁさぁどうぞと戸を開けました。お侍さまはずかずか家の中へ入ってゆきなさり、いろりばたにドッカリと座りこみなさいました。そして先程のタヌキをかかげ、「あるじよ、これでタヌキ汁をこしらえてくれ」とおっしゃいました。
あるじはそのタヌキを見るなり、真っ青になって言いました。「イエ、お侍さま、この辺りの村では、雪の降る日に畜肉を喰らうと、幽霊が出るという言い伝えがございまして、タヌキ汁なぞはもっての他、おあきらめ下さい」
「何を言う」お侍さまは自目をひんむかれました。「拙者の言うことが聞けぬか。聞けぬならばおぬしの首をかっ切るまでのことじゃ。何、恐るることはない。もののけなぞ、拙者の手にかかればすぐにこのタヌキの如く真っ二つじゃ。イヤならおぬしは食べんでもよい、拙者一人で食べる」あるじは仕方なくタヌキ汁を作りました。お侍さまはうまいうまいとたくさんお食べになりました。こんなうまいものを喰わんとは、おろかなことぞ、とお笑いになりながら…。
…と、すっかり鎬の中をカラッポにして、最後の一すくいを口に入れんとした時、お侍さまは突然お椀を取り落としなさりました。「どうなされた」あるじは言ってお侍さまを見ました。お侍さまは真っ青な顔で天井をお見つめになったまま、ぴくりとも動きません。
あるじは天井を仰ぎました。そして、思わず叫び声を上げました。
天井には、何十もの、いや何百もの死人の青ざめた顔が浮かび、ひしめいておりました。ある首は町娘のものでした、ある首は商人のものでした。坊主の首もありましたし、乞食の首もありましたし、ハチマキをした職人の首もありました。それがみな真っ白になった唇のハシから血をたらし、自眼をむき、脂汗をポタポタと垂らし、まさに斬られたその刹那の苦悶の表情と、この世のすべてを焼きつくしてしまいそうなほどの激しい呪詛の念を顔に浮かべて、呻き声を上げているのでした。それはお侍さまが月夜の晩のたびに斬り殺していた人々の生首に違いありませんでした。
あるじは気を失いました。そして翌朝になって目覚めると、天井の首どもは消え去っていて、代わりに傍らへお侍さまの生首が転がっておりました。
お侍さまの生首は、昨日の晩、天井の首どもが浮かべていたのと寸分たがわぬ顔つきを浮かべて、転がっておりました。
「…じゃから、ぼうず、雪が降っとったら、肉ァ喰っちゃおえんぞ。」
ポンとキセルの灰を落として、置きぐすり屋が言った。ヒョ−ロクは、ふるえながら、大きくうなずいた。
2
その年はどうしたわけだか、魚もウナギもさっぱりとれやしなかった。トトは、ワナを引き揚げて回るのだが、どれ一つとして空っぽでないものはなかった。「おかしいわなァ」トトは首をかしげて言った。「いつもの通りにしかけとるのになあ。おえりゃぁせんがな」
それから、ひどく衝撃的な事件が起こった。トトやヒョ−ロクのように山の一軒屋に住んでいた年寄りの木こりが、キノコにあたって死んだのである。その木こりはもうかれこれ五十年も六十年も山で暮らしていて、キノコ採りをしくじるようなヘマをしでかしたとはまず考えられなかった。
変死だというので、町の医者が巡査といっしょにやって来て、木こりの死体を運んで行った。「何で持って帰るんじゃ、先生は」医者の助手3、4人が木こりをかつぎ上げてタンカへ乗せているのを遠まきに眺めて、ヒョ−ロクが言った。「そりゃおめぇ、解剖するためじゃ」とトトは答えた。「カイボ−?」「そう。胃袋を切ってな、中身を調べるんじゃ」
その時、ふと医者とヒョ−ロクの目が合った。ヒョ−ロクは、まさかわしの胃袋まで切られてしまうんでないか、と恐ろしくなって、火がついたように泣き出した。
程なくして解剖の結果が出た。木こりの胃に入っていたのは昔からそこら一帯でもっともよく親しまれている食用のタケだった。ところが、本来は毒を持っているはずのないそれが、どういうわけだか毒を持っていたという。
「突然変異っちゅうことじゃ」
巡査から話を聞いてきた村長が、寄合いの席でそう説明した。
「何でも今年はでぇれぇ気候がおかしゅうて、そのせいでキノコの性質がガラッと変わってしまったらしいで。当分キノコ採りにゃ行かん方がエエ」
「そういやァ、今年はサッパリ魚がとれんが、それも気候っちゅうもんのせいじゃろうか」
「そうじゃろう、ホレ、里でもサッパリ米がとれん言いようるじゃろう。」
そうなのであった。トトもまた、それでほとほと弱りはてているのだった。町で薪を売り、銭をこしらえて農村を訪れても、農民たちは米を売ってはくれなかった。
「ホンマに悪いんじゃけんどなァ」必死で頼みこむトトに、彼等は言うのだった。「今年ぁ夏が寒かった上に、でぇれぇイナゴが増えよってのう。売るどころか、わしらが食べる分もとれなんだんじゃあ。こならの実を、少しわけてやるけぇ、帰ってくれ」
こならの実というのは、農民たちが、凶作でいよいよ飢えが迫った時に食べる非常食である。どうにもならん、困ったことになりつつあるようだと、トトは頭垂れた。
もうすぐ冬が来る。しかしちっとも、食べものが蓄えられていなかった。もはや、このままでは死ぬより仕方がなく、それをなすすべなく待たなければならないことが、たまらなく恐ろしかった。「魚もおらんわ、米もとれんわ、おまけにタケは毒持つようになりよるわ…」村長はため息をついた。「山の神が怒りよったんか…」
寄合から帰ったトトは、蓑をぬいで戸口へ座りこんだ。
「ヒョ−ロク、湯ぅわかしてくれ」
「ほい来た」
カマドの上へ水をはったナベを置き、ヒョ−ロクは火吹竹を手にした。
「お父、今日はキノコ採りにゃ行かんのんか」
「ああ、行かん」トトは答えた。
「お父――」ヒョ−ロクはふり向いて言った。「どうするんじゃ、もう冬が来るで。食いものが、ちっともありゃアせんがな」
「ああ、ねぇなァ」
「どうすんじゃ」
「わかんね」
チャリ、と、トトの懐の中で銭の音がした。トトは今日も町へたくさん薪を持って行った。この寒さのせいか薪は飛ぶように売れた。しかし、そうして得た銭を持って里へ寄っても、誰も米を売ってくれやしなかった。「銭は喰えねぇ」そんなことを言って苦笑いしたじいさんもいた。「こん、役立たずめ」トトは懐からチャリチャリいうものをつかみ出し、ずかずかとカマドへ歩み寄った。そして、ヒョ−ロクをおしのけて、カマドの中めがけて力いっぱいそれを投げこんだ。
「アァッ!」ヒョ−ロクが叫んだ。
ドッと、灰かぐらが立った。
「何するんじゃトト!」
「こんなカナモノ、持っとっても何も役に立たねぇ。」そしてつづいて、土間へちらばっていた薪を拾い集めてほうりこみ、「ドレ、ちょっとかしてみな」とヒョ−ロクの火吹竹をとって、ブ−ブ−吹き始めた。
ほどなくして、ぐらぐら湯が煮えたった。少しさましてからトトはそれをたらいにうつして、ワラぐつをぬぎ、素足をそこへつっこんだ。
「なァヒョ−ロクよ」
トトは足元から立ちのぼってくる湯気に目を落としたなりで、言った。
「何んで生きてるのかわかんねぇのに、何で死にたくねぇと思うんだろうな」
パチパチと、カマドの何で音がしていた。
「わかんね」とヒョ−ロクは答えた。
3
やがて冬が来た。
トトとヒョーロクはいろりばたに座ったなりで過ごした。トトは絶え間なく煙草をのんでいた。風のうなる音が、そして家が煽られてがたがたと揺れる音がしぬく日、或いはしんしんと雪が降りつもり、全ての物音を消してしまう日が続いた。風の強い日はやり切れなかった。家が飛ばされずにいる方が不思議なくらいの激しい風だった。閉め切ってつっかえ棒までした戸のすき間からも、風が吹きこんで来るのだった。ヒョーロクは恐ろしさのあまり、センベイ布団をひっかぶって、表の吹雪の雄叫びが極力聞こえないようにしていた。まるで、駄々をこねる赤んぼうがゆりかごの上で暴れているように、風はトトとヒョーロクの住む一軒家をゆさぶり続けるのであった。
風が無い日は、じわじわと雪が降り積もり降り積もり、ひたひたと飢えの足音が忍び寄って来る。閉ざされた音の無い世界で、時間が止まったまま、少しずつ手足の先から死んでゆくのを待たなければならないのだろうか。ヒョーロクは哀れ蚊の羽音のような声で、「トト、腹へった」とつぶやくのだった。こならの粉だけでは、胃ぶくろはどうにもならないのであった。
トトはたくさん湯をわかした。表の雪をすくって来れば、湯はいくらでもわかせたし、ガブガブと茶碗で何杯も飲んでいれば一時は飢えを忘れ、満腹の幸せをホンの少しではあるが味わうことができた。吹き上げられる湯気のあったかさ、グラグラと煮え立った湯のさまは、生気のまったくなくなった冬の生活に、何がしかの生命の息吹きのようなものを思い出させるようにも思えた。しかし、それもまた、もの哀しいあがきであった。茶腹も一時と言うように、ふくらんだ腹はすぐにまたしぼんでしまうのであった。また、湯でダブダブになった腹の中の気持ち悪さと、満腹感とはやはり別物だった。程なくしてトトとヒョーロクは、湯を飲んだ後、腹部の憂鬱な満腹感と空腹とを同時に感ずるようになった。ただ、盛んに小便が出るだけであった。
飢えが迫っていた。石うすの中のこならの実も、わずかなものとなっていた。すき間風といっしょに死神が入って来て、ガリガリとヒョーロクの膝小僧をかじった。冬には終わりがないように思えた。
「トト、腹へった」
ヒョーロクはやつれた顔を床へおし当てて、何度もそうつぶやいた。くり返しくり返し、そうつぶやいていた。言ってもどうにもならないとはわかっていても、言わずにおれなかった。言っても気は紛れず、それどころか却って空腹に拍車をかけるとはわかっていても、言わずにおれなかった。ものが、考えられなかった。考えられない頭に浮かんだのはただ一つ、この言葉だけで、それをひたすらにヒョーロクはくり返していた。「トト、腹へった」そしてそれを日がな一日傍らで聞かねばならないトトは、ただもう、やる瀬なかった。
そんな風にして一日、また一日と、過ぎていった。
そんなある日のことだった。雪が特別たくさん降った日だった。ヒョーロクはおちくぼんだ目でトトを見ながら、「トト、腹へった」と際限なくつぶやいていたが、とうとう「ヤカマシイ!」と一喝され、泣きそうな顔で横になっていた。が、何を思ったかムックリと起き上がり、「トト、わしにもちょっと、そのキセル吸わしてくれェ」と言った。
もう1度トトは怒鳴り声を上げそうになったが、グッとこらえた。気持ちが静まると、今度はたまらなく、ヒョーロクを可哀想だと思う心情が湧き上がって来た。余程、腹をすかしてのことだろう。トトは腹の足しになぞならないだろうにとは思いながらも、「ほれ、あんまり吸いすぎんようにせぇよォ」と言って、キセルを放ってやった。
ヒョーロクは一吸いするなり、ケンケンとむせび返った。辛くて苦い煙が、空っぽの胃ぶくろにしみた。咳きこんで生ツバを吐き始めたヒョーロクを見て、トトは大あわてにあわててキセルを取り上げ、「こん、大バカ者奴」と怒鳴りつけた。
根かぎり咳をして、ヒィーッ、ヒィーッとか細く息を吐いていたヒョーロクは、やがてボタボタと泪を落とし始め、そして突然火がついたように泣き始めた。くやしかった。情けなかった。悲しかった。腹へった。そうしたすべての思いがごちゃ混ぜになって、カンシャク玉を爆発させた。
トトはそんなヒョーロクをジッと見ていたが、やがて、意を決したように立ち上がった。いや――正確に言うと、意を決して、立ち上がった。ヒョーロクは、その父の表情を、読み取ることが出来なかった。
「待っとれ、ヒョーロク」
そう言い残して、トトはコオトを羽織り、猟銃をかついで、真っ白な表へと出て行った。
5
それから日も傾むこうかという頃、トトは頭垂れて、とぼとぼとしんどい山道を歩いて引き返していた。トトの羽織ったコオトは降りつもった雪のせいで真っ白になっていて、提げた鉄砲は弾がこめられたまんまである。トトはその筒先からきなくさい一すじの煙を昇らせることもなく、手ブラで帰り道を歩いていた。
トトは里を下りて、盗人になるつもりであった。そして又場合によっては、人殺しになってしまうことも覚悟のうちであった。農家の倉へ忍びこめば、少しは米が手に入るだろう。そうだ、農家は米の出来が悪かった悪かったと言っていたが、売る分が無いだけで、自分たちで喰う分はシッカリとつかんでいるに違いない。そう考えるとトトの胸のうちにはムラムラと言いようのない怒りがこみ上げてくるのであった。まぶたの裏へ、腹が減ったと泣くヒョーロクの小さくちぢこまった姿が浮かび、それがかき消されて、幸福な農家の食卓の様子がアリアリと映し出された。その中で、憎々し気な太った子どもが、茶わん山もりの白米をほおばっていた。
そんな頭の中の風景に、トトは激しく憤り、やがてその憤りは山奥で飢えて死ぬより仕方のない生活を送ることを自分やヒョーロクに強いている世間の不条理への憎しみにまで膨らみ、さらにその膨らんだ大きな憎しみがそのまま再び農家の人々に向けられた。
悪いことなんかじゃねエ。トトは自分に言い聞かせた。生きるために、やむを得ないことだ。おれがこの鉄砲でだれかをズドンと撃つことより、あったかい寝床で眠れる人と冷たい寝床で寝なきゃなんねエ人とを同じ地めんの上へ並べて平然としているお天道さまの方が、よっぽどむごたらしいわェ・・・。と言いつつもトトのひざがしらはガクガク震えていた。それは雪と北風のせいだけではなかった。
トトは村へ到着し、その中を四、五へんぐるぐる歩き廻った。息はふるえ、鉄砲の重たさのみが奇妙な実感をともなって存在していた。あの家になぐりこもう。いや、そっちの家の横の倉へ忍びこむか。いや・・・。しまいにトトはへたりこんだ。フン切りが、つかなかった。やはりおれは悪いことをしようとしとるんじゃアねエかのう・・・そんな風にすら思えて来た。
と、ふと、トトの耳にある音が聞こえて来て、ハッとした。その音はほうぼうの家から聞こえて来た。かじかんでシビレた耳の中でも、それはハッキリとひびいた。鉄砲の重さといっしょに、トトへのしかかってきた。それは、農民たちが、こならの実をひくために、石うすを回している音である・・・。
なんだァ。トトはへたりこんだなり、灰色の空を見上げた。ここでもこならを喰ってるっちゅうこた、やっぱり米が少しもねエんだなァ。へへへェ・・・。
・・・みんな腹を空かせてんだ・・・。
どこからか、赤んぼうの泣く声が聞こえて来た。今にも消え入りそうな、弱々しく、シャガレた泣き声だった。あァここにもヒョーロクが居る・・・トトはそうつぶやいた。
空はどこまでも灰色だった。トトは真っ赤にしもやけてふくれ上がった手の甲をすり合わせた。―帰ろう。
そしてトトは来た道をもう1度歩きはじめた。
ザッと、物音がした。
トトはびくっとして、鉄砲をかまえた。ここはほの暗い山道の途中である。物盗りか、山賊か。トトの心臓は大きく波打った。
だがそれは物盗りでも山賊でもなく、それ以前に人でなかった。木かげから出て来たそれを見てトトは思わず息をのんだ。
それは今まで見たことがない程に美しい、一頭の牝鹿であった。毛皮は降りしきる雪よりも白かった。すらりとした体?は気高さとやさしさにみちあふれていた。そして黒目がちの眼は、トトにたまらない哀しさと、たまらない懐かしさを覚えさせた。ほの暗い山中で、その鹿は照り輝いて見えた。
「お、おどろいたじゃアねェか」トトは言った。「さァ、行けよ」
しかし鹿は動かなかった。まっ黒い眼で、ジッとトトを見つめて、立ち去ろうとしなかった。
「行けってば」とトトは言った。しかし鹿は微動だにしなかった。
トトは鉄砲をかまえたなりだった。指を引き金にかけてさえいた。もし――と、トトは思った。もし、ここで指に力をこめたならば、こめたならば――わしもヒョーロクも、飢え死なないで済む――でも――。でも――。大きな力が、トトをおさえつけていた。村に伝わる、あの言い伝えを恐れたためではない。その時のトトは、そんな幽霊伝説など、頭になかった。ただ―その鹿の黒い眼が―トトを凍りつかせていた。それは狂おしいまでにトトの心をかき乱した。喜怒哀楽のどれにも分類できない、得体の知れない感情がトトの中に渦巻いていた。トトは、自分のほほが焼けるように熱いことに気がついた。いつの間にか、トトの両目から、泪があふれ出ていたのだった。どうしたことだ―どうしたことだ―金しばりにあったかのように、トトは立ちつくした。
――だめだ。撃てねぇ――
トトはそう思った。
その時である。
――お撃ちなさい――
トトの心の中でそんな声が聞こえた。
トトはドキリとして、鹿を見た。もう1度、今度はよりハッキリとなった声が、トトに聞こえた。
――かまいません。お撃ちなさい――
トトの中を、今までに見たものすべてがぐるぐると回り出した。森羅万像が吹雪のようにトトを走り抜けて行った。そして最後に、いろりばたに座りこんで待っている、ヒョーロクの姿が見えた。
トトは泣き叫びながら、引き金をひいた。
ズドンという音が、山の中へひびきわたった。
まっ白な地面が、赤くそまった。
そしてまた、うそのように静かになった。
5
「帰ったぞ」
トトの声がした。
ヒョーロクはカマドの前へ座りこんで、懸命に火吹竹を使っていた。「アッ、トト」ヒョーロクは振りむいて、目を丸くした。持っていた火吹竹を、取り落とした。見たこともないほどに白く美しい鹿を背負ったトトが、戸口に立っていた。
「どしたんじゃ、そのシカ」
「あァ、山でしとめた。さァ、喰おうでぇ。これで何とか命ァつなげるでェ」
「でもトト、雪の日に畜肉ァ…」
「うれしかろう腹一杯喰えるのァ久しぶりじゃろうが」そう言ってトトは上がり口へどっかと座りこんだ。「おッ、湯ゥわかしといてくれたんか。気がきくの」
「トト」ヒョーロクは半泣きになって、言った。「畜肉喰ったら、幽霊が出るで」
「かまうもんかぇ」トトはワラぐつをぬぎ、肩につもった雪を払った。
「いやじゃ!」ヒョーロクは叫んだ。「死ぬなァ、いやじゃ!」
「なァヒョーロクよ」トトはかじかんだ足をもみくだしながら、諭すように言った。「このシカを喰やァ幽霊が出ちまうし、喰わなけりゃ飢えて死ぬ。どっちにしてももう終わりじゃ。どうしたって死ぬより仕方がねぇ。そんなら、どうせ死ぬなら、腹一杯で死ぬ方がえェ。な。最期くらいは、うまいもんを喰おうで。な、な。」
結局、ヒョーロクが折れた。トトはそのシカをさばいて、あったかい肉汁をこさえた。あれ程恐がっていたヒョーロクも、いざうまいものを鼻先へつきつけられると、矢も楯もたまらずガツガツとむさぼり喰うのだった。ナベいっぱいに煮立った肉汁は、アットいう間になくなった。トトとヒョーロクは、はち切れんばかりの腹を抱えて、フウと大きく息をついた。「うまかったなァ」と、トトが言った。「うまかった」と、ヒョーロクも答えた。
しんしんと、雪が降っていた。
腹の苦しさが少しずつましになってゆくのにつれて、じわり、じわり、と恐ろしさが家の中へしみこんで来た。「なァトト」とヒョーロクが言った。「いつ、幽霊は出るのじゃろうか」
「さァナァ、トトはキセルの灰をポン、と落とした。「いつかの」
ヒョーロクは恐る恐る天井を見上げた。フイに、薬売りの話を思い出したのである。天井には、何もなかった。ヒョーロクはホッと胸をなでおろした。と、そのすぐ次の瞬間、物音がした。
「ギャッ」ヒョーロクは叫んで、飛びのいた。
「どした」トトはびっくりして、中腰になった。
「ヘ、ヘンな音がしたんじゃ」ヒョーロクは腰をぬかしていた。
「バカタレ、ありゃあ、屋根から雪がすべり落ちた音じゃ」トトは声を荒げた。「ビクビクすんじゃねェ」
しんしんと、雪が降りつもっていた。
ヒョーロクはいろりばたに、ヒザを抱えて座っていた。トトは難しい顔で、スパスパとタバコを服んでいる。おそろしいまでに、静かだった。ヒョーロクは、何でここまで静かなんじゃろう、と思った。雪ははげしさを増すでもなく、さりとて止むでもなく、しんしんと降り続けていた。一塵の風が、戸のすき間から吹きこんできた。ヒョーロクは思わずブルッとふるえて、センベイ布団に手をのばした。その時だった。
・・・?
何とも形容できぬやわらかなあたたかさが、ヒョーロクをつつみこんだ。その熱はいろりのものではなかった。そのあたたかさは、どこか懐かしく、もの哀しく、ヒョーロクをつつみこんだ。不思議だった。ヒョーロクは体中からスッと恐怖心が消えて行くのを感じた。そして、耳の奥で何かがかすかに聞こえることに気付いた。
・・・・・。
ヒョーロクはあたたかさにつつまれたまま、目をとじた。そうして、より一層深く、その不思議な感覚の中に身をうずめた。しばらくして、もう一度、聞こえた。たしかに、聞こえた。
・・・ヒョーロクや・・・。
「トト」静かに、ヒョーロクは言った。「カカの声がする」
「何じゃと」トトはキセルを取り落として、またぞろ中腰になった。「バカ言うじゃねぇ、お前ぇのカカは―――」
トトの動きが止まった。
表の雪の白が月の光を反射して、ぼうと光った。
「聞こえたか」ヒョーロクは尋ねた。
「――聞こえた」トトは答えた。
しんしんと、雪が降っていた。
トトとヒョーロクは、その不思議なあたたかさに身をうずめて、ジッとしていた。
「聞こえた」
いま一度大きくうなづいて、かみしめるようにトトが言った。
山はますます、白くぬり上げられていくようだった。
雪が溶けたら、とヒョーロクは思った。雪が溶けたら、山も里も、このあたたかさでいっぱいになるだろう。そうしたら、このあたたかさの中を歩いて、カカの墓参りに行こう。そして、カカの霊前に、一輪の花をたむけよう――。
きっと、トトも同じことを考えているに違いなかった。
しんしんと雪の降る、静かな夜のできごとであった。
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