種田山頭火(2003年12月執筆)
連作漫文『文弘風雲児列伝』の第四章。考えてみれば、僕が種田山頭火について書いたほとんど唯一の文章である。
1
一度やってみたいことの一ツに、たくはつの旅がある。
ボロボロの僧衣をひっかけて、手には数珠をぶら下げて、かなしく青い空の下をてくてくと歩く。街から村へ、村から町へ、僕の知らない人が住んでいる家々を巡っては、お経をあげる。いただいたにぎりめしだのまんじゅうだのを、野ざらしの墓石の横っちょへでもしゃがみこんで、ありがたく頂戴する。胃ぶくろが満ち足りて、青草でもくわえて雲が風へ乗っかるのを見やりつつ、脳裏に流れては消え、流れては消えてゆくことばを、ノウト・ブックへ書きつける。日が沈めば眠り、日が昇れば起きる。風が教えてくれる道を歩く。そして、「ああ花が咲いている」と思う、また「ああ月が出ている」、と思う。また「ああ虫の声がする」と思う。遠く離れて灰色のシルエットになった山々はどこから始まって、どこで途切れるのだろうかと思う。立ち上がる、砂ぼこり土ぼこりといっしょに、身にまとった衣からもほこりが舞い上がる。また歩き出す、てくてくと、歩き出す。
さぞかし気持ちのよいことだと思う。僕は世間知らずであるし、そんな無銭徒歩旅行をやり通す自身はまったくありやしない。雨にうたれてバス停のベンチの前かどこかで野垂れ死ぬのがオチだ、とも言える。僕が思っている以上に厳しい旅になるだろうし、耐え忍ばねばならぬことも山のようにあるだろう。(例えば、のどのかわき一ツとってみても、地獄の業火である)
しかし僕の中にあるのは、コケの生えた道祖神が立っているアゼ道を、すきっ腹抱えて歩いている無精ヒゲの自分の姿である。いつかそんな風になりたいのである。
一九六〇年代、僕の生まれるずっと前(僕等の名前を覚えてほしい、安保闘争を知らない子供たちさ!)、世界には、伸ばした髪に花をさしたヒゲだらけの人たちがいた。彼等はヒッピーと呼ばれていた。
ヒッピーの共同幻想がもろくも崩れ去り、ラヴ・アンド・ピースの波が時代に敗北したことは周知の事実である。では、なぜ敗北したか?
僕は理想主義は否定しない。いや、むしろ、肯定側である。しかし理想主義を支えるには手痛い批評精神が必要不可欠である。先ず理想があって、それを目指して手痛い批評をし、状況を改善するのが意味のあることだ。
ところがヒッピー文化が寄りどころとしたのは手痛い批評精神でなく幻想であり、ドラッグであった。幻想は幻想でしかなく、すなわち発展性がなく、ドラッグの阿呆らしさは言うまでもない。
僕の憧れるたくはつの旅と、ヒッピーの放浪生活とはまるで別物である。僕の憧れるそれは「生きること」であり、ヒッピーのそれは「ファッション」だったのだ。当時者は本気だったかも知れないが結果的にそれは「ファッション」だったのだ。
「生きること」これほど大切なことはない。
2
種田山頭火。あまりにも有名な漂泊の俳人であり、あまりにも有名な自由律俳句作家の代表的人物である。酒を愛し、喰うことを愛し、そして何より俳句を愛した。晩年の十四年間のたくはつの旅は、まさに風となり、雲となったかのような旅であった。
山頭火の人生は決して平たんなものではなかった。まず幼年時代のトラウマである。山頭火が九歳の時、彼の母は自殺した。自宅の井戸へ身投げしたのである。
九歳と言えば、人生のうちで最も多感な時期である。しかも近親者の身に起こった悲劇は、幼い子供にとって、自分の身を切り刻まれているのと同じぐらいの精神的ダメージを与えるものである。母の自殺というあまりにも悲惨な出来事が、山頭火にどれほどの衝撃を与えたか、はかりしれない。その上、なんと山頭火は、母の死体が井戸から引き上げられるところを見てしまったのである!
僕の祖父は今年死んだ。近親者の死は久しぶりだった。僕がその時感じたのは、いかに自分が「死」というものを何一ツ理解できていなかったか、「死」というものをとらえられていなかったか、という事であった。
自分の目の前へ横たわっている、少しばかり縮んだかに見える祖父の死体――これは確かに祖父なのだろうけれども、もうすでに「祖父」ではなくなっているのも確かなのである――一体どういうことだろう?そして祖父が焼かれて、骨になった時、この不思議な感覚は一層巨きなものとなった。
・・・・・・これは何なのだろう。
骨を見た時の最初の感想が、これである。無論、これが祖父の骨であることは百も承知である。しかし、頭でわかっていても(地球が丸いものである事を感覚的には理解できないように)それがわからなかった。祖父はキレイさっぱり消えてそしてこの骨のみが残った。僕にはそれがあまりにも不思議なことに思えた、目の前に置かれた粉っぽい白いモノ、それと祖父とを結びつけているものがどうしても見えなかった。
つまり、ひとりの人間の「存在」が、完全になくなり、「物体」が残る、このシステムを初めて認識し、それが理解しがたいものに思えたわけだ。
僕は昔から「死」についてアレコレ考えることが多かった。「死」に特に恐れを持ってもいなかったし、それは「死」をよく認識しているからだ、と信じていた。
しかし結局、単に僕は何ひとつわかっていなかっただけなのである。そして今も、わかっていない。そうしてわかる時にはもう死んでいるように思う。
井戸から引き上げられた母の死体を山頭火が見た時、彼は何を思ったのだろうか――
はかり知れぬものがある。
※
山頭火は五十歳の時、小郡の其中庵で死のうとしたことがある。(これはたぶん宗教的な意味合いが強いと思われ、一般的に考える「自殺」とは少し毛色が違うのではないかと思う)
山頭火は睡眠薬カルモチンを大量に服用した。そして縁側へ寝っ転がってガーガーと寝た。やがて昏睡状態に陥った。気付かぬ間に縁側から転げ落ちた。そして庭の真ん中で大の字になった。
ポツ。ポツ。ポツポツポツポツ、ザァ――ッ、
雨が降り出した。山頭火は雨に打たれ、なんと息を吹き返してしまった。
笑えるような笑えない話である。そういえば、一貫して「生きること」と「未来」にこだわり続け、自殺を忌み嫌った坂口安吾も、睡眠薬アドルムを致死量の二倍以上も飲んでは、エネルギーのありあまった作品をどんどん書き飛ばしていた。
山頭火は死ぬつもりで大量の睡眠薬を飲んだ。安吾は死ぬつもりはなくて(単に寝たくて・・・後々は中毒で)大量の睡眠薬を飲んだ。動機は一八〇度違うにしろ、結果的に二人は同じように生きのびた。
おそらく、二人とも、死ぬより生きる方が性に合っていたのだろう。
3
彼の人生において、まるで影のごとくまとわりついてズッと離れなかったものがある。それは酒である。
まったくもって山頭火はすばらしい大酒飲みであった。コップ酒で一気飲み、しかも飲み出すと、泥酔して昏倒するまで飲んだ。酒を飲ませろと友人知人にタカリ、飲みつぶれて迷惑がられた。
酒を飲んでの武勇伝としては、こんなのがある。四十二歳の時。彼は正体を失くすほど酔っ払って、フラフラと熊本市公会堂の辺りを歩いていた。折しもその時、電車が轟々たる音を立てて近くを通り過ぎようとした。山頭火は何を思ったか、電車の前へ仁王立ちになった。
もう上へ下への大騒ぎ、乗客も付近の人々も大パニック。しかも当の御本人は正体が失いのであるからもうてんやわんやである。
ひょっとするとこの事件は、彼の根底にある自殺願望の成した業かも知れぬ・・・。
山頭火は、もう二度とこのような事件を起こさぬようにするためか、寺へ連れて行かれて、寺男にされた。そうして出家し、たくはつの旅を始めるわけであるが、出家してもやっぱり酒を止められなかった。死ぬ三年前の五十四歳の時も、泥酔して無銭飲食をして、ブタ箱へぶちこまれたという。
こうした酒へのなみなみならぬ思いを見るにつけ、僕は李白の最期のことを思い出す。
李白もまた大酒飲みであった。ある時、酔っ払った帰り道で、湖のそばを通りかかった。空を見上げれば見とれるほどの月が浮かんでいる。しかしそれよりも美しい月が、湖の水面にゆらめいていた。あまりに美しい月が、湖の水面にゆらめいていた。李白はそれが欲しくなった。そして取りに行った。そのまま帰って来なかった。
僕はこの話を高校の漢文の時間に習ったのだが、腹の底から感嘆したものだ。
僕も死ぬときゃこのように、とすら思った。後世の人の作り話だとする説もあるが、僕はこれが本当にあったことだと信じている。
それにしても、電車の前へつっ立っちまった山頭火といい、月を取りに行った李白といい、酔っ払いとはかくも格好よいものだろうか!
※
山頭火は「酒は私のカルマだ」として、とうとう生涯、飲み続けた。そうして、酒と同じく、俳句も止められぬなァ、と俳句を作り続けた。
4
犬の話。
山頭火がてくてく歩いていると、自分にむかってひどく吠えついてくる犬がいる。山頭火はじっと犬の目を見つめ、ただ一心にお経を読んだ。するとしばらくして、犬はうれし気にじゃれついてきたという。犬の飼主は、「いやはやおみそれしました。この犬はどういうものか他人に馴れるということがなかった奴なのです、あなたは大した方だ」と言って、ご飯をたくさんくれた。タラフク喰ったよ!と山頭火は語っている。
いかにも、な話である。犬にむかって一生懸命経を読んできかせている乞食坊主の姿が目に浮かぶようで、とても微笑ましい。
もう一ツ、犬の話。これはいよいよ死ぬ直前、1九四〇年の十月初めのことである。
夜、なぜだか知らぬがてくてくてくてくと、どこからともなく汚れ犬がついてくる。コレコレ犬よ、どうしたのかい?と見てみると、大きなモチをくわえているではないか!
世界のためにもう一度。
大きなモチをくわえているではないか!
これは犬が俺にほどこしをしようと思って、こうしてモチをくわえてついて来たに違いない、と山頭火はいたく感激して(感激のあまり日記帳にモチの絵を描いているほどだ)このモチをありがたく食べたという。
さすがに、山頭火である。文学史上、古今東西俳人は星の数ほどいるだろうが、犬からモチをもらった俳人など、彼以外には一人としていないであろう。
その三日後、留守中に、猫にメシを喰われていたとか。山頭火は猫の食べ残しを食べながら(そう、食べたのである、きちんと、食べ残しを)、先日は犬にほどこしてもらったが、今日は俺がネコにほどこしたことになるな、まったく犬猫と言うものは面白いものじゃて、と独りごちた・・・かどうかはさだかではないが多分そのように思ったことだろう。山頭火は、犬にモチをもらったことと、猫にメシを喰われたことを題材に、ちょっとした随筆を書くつもりだったという。そうして、稿料がもらえたら、ワン公とニャン子にメシをおごってやろう、と日記に書いてある。
しかし、残念ながら、ついにその随筆が書かれることはなかった。
犬にモチをもらってから約一週間後のこと。山頭火の庵で、句会が催された。山頭火はフトンの上で眠っていた。集まった俳人達は、「また酔いつぶれてやがらァ」と山頭火をほうっておいた。 猫
そのまま朝になっても、山頭火は目覚めなかった。
一九四〇年、十月十一日のことであった。
5
うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする
山頭火が、母の四十七回忌の時に詠んだ句だ。嵐山光三郎氏がこの句について、「山頭火は、この句一句を詠むためにここまで生きてきたのではなかろうか」と評していたが、同感同感、大同感、まさに我が意を得たりである。
仏壇の前へ、うどんを供える。きれいな花などではなく、うどんである。そしてその前で、ぼろぼろと泣きながら、めそめそするのではない。自分の分のうどんを用意して、これをずるずると頂く。そして、霊前に手を合わせ「イタダキマス」という。母とさしむかいで、うどんを喰う。うどんを、喰う。
思うに、この句を詠んだ時、山頭火は、母の死を自分の中で精算できたのではなかろうか。そして、悟りの境地に達したのではなかろうか。
酒からも、食欲からも、俗からも脱け出せなかった、山頭火。しかし、この句は、あきらかに悟っている。あきらかに悟れないと、詠めない句である。
山頭火の悟りって、なんだったのだろう。
※
前途した通り、山頭火は決してよい思い出を抱えていたわけではない。とうとう酒も止められなかった。苦しかった。辛かった。
しかし、彼は生きた。生き続けた。何度も死にたくなっただろう。そして何度も死のうとしただろう。しかし、彼は生きたのだ。
無常観という言葉がある。世に中に永久不変なものはない。すべてはかないもので、アッという間に終わってしまう。
さて、無常観の後には何が来るのだろうか?永久不変でないから、生きていてもしょうがないのか?どうせはかない一生だから、頑張ってもしんどいだけで終わるのか?
否。永久不変ではないからこそ、全力で生きるのである。
無常観をベースとした書物で最も有名なものと言えば、兼好法師の「徒然草」である。もし、兼好が、世は無常だから、もうがんばってもしょうがないや、と思っていたとしたら、彼は徒然草を書かなかっただろう。全力で生きるため、はかないこの世を、よりよく生きるために、書いたのである。
母の死や、大震災に遭い、山頭火は無常を痛感した。しかし彼はそこから「もうどうでもいいや」の地点へ行ったのではなく、だからこそ生きなくてはならない、とメシを喰らい、俳句を詠み続けたのである。
「永久不変でないから、はかないからと、生きることを投げ出すのは、「どうせまた腹がへるんだから」とメシを喰わないことと同じくらい、バカげている」とかつて僕の親友が言った。その通りだと思う。
だから、自殺は、バカらしい。人生は生きることで、死ぬことではない。
※
山頭火は、「相手にモノをもらう時は、相手より上の立ち場じゃないといかん」なんてうそぶいていたが、実際は、この人くらい、ほどこしに感謝していた人はいない。「もろうて食べるおいしいありがたさ」という句が、すべてを物語っている。
山頭火の日記には、お布施の額や、食べたものの内容が、ぎっしり書かれている。人によっては、「意地汚いことだ」と思うやも知れぬ、が、僕は、これは、山頭火がだれだけ、ほどこしを受けることに感謝をしていたかがうかがいしれる事であると思う。
山頭火は、欲を捨てて解脱することはできなかった。
欲を見つめ、欲といっしょに生きることで解脱した。
母の死が忘れられなかった。
母の死とともに生きた。そして、母の前へうどんを供え、自分のうどんを食べた。母の生きられなかった分を、生きた。
人はいつか死ぬ。この世ははかない。
当然である。
だからこそ、今日は生きる。今日生きられることを幸せに思う。今日メシが喰えること、今日恵みを受けることに感謝するのだ。
それが、すべて、それが、全部なのだ。
山頭火の辞せの句は、とうとうメシをおごってやれず始末になってしまった、ワン公とニャン子への、ささやかな贈りもののように思える。
秋の夜や犬からもらったり猫にあたえたり
星の数ほど俳人がいようとも、これ以上の名句を詠んだ人がいるとは思えないね。
copyright2006(C) OKADA HUMIHIRO