トム・ウェイツ(2003年12月執筆)

連作漫文『文弘風雲児列伝』の第二章。考えてみれば、僕がトム・ウェイツについて書いたほとんど唯一の文章である。




木曜日が終って、金曜日も終って、金をもらって、土曜日が来る。
かわいい女の子・・・・・・別にそんな、絶世の美女じゃなくたっていい。町一番の美女でなくたっていい、仕事の疲れをそっくりぬぐい取ってくれる、そういう子なら・・・・・・とを乗せて、車をすっ飛ばす、カーラジオをひねれば、歌がこぼれ出す。そっと女の子の肩へ手を回す。ワインにピッタリの言葉を並べる。そんなことを思い描きながら、街の大通りをすっ飛ばす。チャリチャリと、ポケットの中で小銭が鈴みたく鳴っている。まったく、疲れるばかりの5日間だ。ボスは肥えたおっさんで、人をこづき回して怒鳴り回ってこき使う。同僚は最近、なんだか年をとったように見える。ふと仕事のあいまにタバコへ火をつけた時、ヤニで汚れたツメと、刻みこまれた手のシワが目に飛び込んでくる。気付かぬうちにみんな枯れて行く。俺もなのだろうか――。でも今はいい。街の灯が心臓をうずかせる。高鳴っている。今夜が特別な夜になったならば、どれだけ素敵だろうか。
髪にクシを入れたし、疲れのホコリも払いのけた。そう、そうして今、こうして車をすっとばしている。赤信号で一旦停まる。心臓は高鳴りっぱなしさ。青になる。車のエンジンがひとうなりして、俺はまたぞろ走り出す。
今日こそは、土曜の夜の相手を見つけるのさ。あァ、今までにない夜にしてやる、生まれて初めての、素晴らしい夜にするのさ。土曜の夜の相手を見つけて。

♪♪♪

俺はカウンターの端にいる――いつもの古びたバーで、何をするでもなく飲んでいる。女給が俺に笑いかけている。俺は泣いているんだろうか。いつもの古びたバーで、何をするでもなく、俺は体の芯が震えているのを感じる。そう、いつもの古びたバーで、何をするでもなく夜が過ぎてっちまう。




ポップスで、ピアノの弾き語りといえば、エルトン・ジョンやキャロル・キングを思い浮かべる人が多いだろうけれども、僕は迷うことなく「ピアノ弾き語りと言えば何をさておき、トム・ウェイツでおじゃるよ」と答える。

トム・ウェイツは、一九四八年師走クリスマスまであと少し、の頃にカリフォルニアで生まれた。両親は高校教師で、トムが生まれてからは南カリフォルニアのあちらこちらを点々としている。
やがて両親は離婚、トムは母親に引き取られてメキシコ国境に近い田舎町へと移り住むことになる。高校時代にはダチとバンドを結成し、ジェームス・ブラウンなどのカヴァーに興じていたとのこと。(そう言えば最近、ジェームス・ブラウンは夜食を食べる習慣を止めてダイエットに成功し、昔の服がまた着られるようになったのだという。よかったね。)

高校卒業後、バンドは解散。トムはサンディエゴに移り住む。やがて、ビートルズの「サージェント・ペパー」の出現とともに、サイケデリックの台風が若者の間に吹き荒れる。最先端の人たちにとってドラッグがパンをもしのぐ常用食となり、長い髪に花をさした人々が世界にあふれ出した。既成概念が雪崩を起こし、価値観がでんぐり返しをした。

さて、その頃、トムは何をしていたかというと、ピザを配達していた。世界のためにもう一度。彼はピザを配達していた。彼の言葉を借りて言うならば、彼はピザ屋で「俺は俺のパレードを続けていた」のである。

ピザ屋でのパレードは、彼にとってしごく有益なものとなった。ピザ屋があった裏町は、歌の素材の宝庫だった。
食べ物のくずを拾い、テーブルについた油をぬぐいながら小耳にはさんだ、紫色の煙とバーボンにまみれた疲れた身の上ばなし。それが詰めこまれたのが、ウェイツのレコードなのだ。やがて、トムはフランク・ザッパのマネージャー、ハーブ・コーエンに見出だされ、契約する。

こうしてプロの歌手となったトム・ウェイツは、七三年、爽やかで清涼なシンガー・ソングライターたちの波が押し寄せる中、真夜中のキャバレーの片すみに吹きだまった裏ぶれた男たちの歌を並べたレコード「クロージング・タイム」を発表。その後、ジャズ色を強めつつ、「土曜日の夜」「娼婦達の晩餐」「スモール・チェンジ」等の傑作アルバムをコンスタントに発表していく。  
アルバムの枚数が増えるにつれ、どんどん彼の声は酒やけし、つぶれてゆく。

八十年代に入ると、トムはアイランド・レーベルに移籍し、それまでの優しさにあふれしみじみとしていた作風を捨て去り、一転して、キャプテン・ビーフハート風のアバンギャルド・ミュージックを作り出すようになる。バラード歌手から前衛音楽家への大変身だ。そうして、“フランク三部作”と称される「ソードフィッシュ・トロンボーン」「レインドッグ」「フランクス・ワイルドイヤード」を発表。また、ミュージカルを制作したり、個性派俳優として映画界へ進出したりと大活躍である。

九十年代になってからは、エピタフ・レーベルに移籍し、集大成的な大傑作「ミュール・ヴァリエーションズ」を発表している。



僕が1番最初に買ったトム・ウェイツのレコード(正確に言うとCDであるが)は、デビュー作の「クロージング・タイム」だった。それまで耳にしたことのない、だのに何故だか懐かしくてたまらない曲の数々に心洗われる思いがした。こういう曲を聴きたかった、とも感じた。
だが、その時はまだのめり込むほどには聞き込んでおらず、CD棚の一画にコレクションとして加え、時おり心を癒したい気分の夜に取り出してはターンテーブル(正確に言うとCDコンポなのだが)に乗せていた。

本格的にトムの音楽を聴き出したのはそれから大分後になっての話である。きっかけは、85年発表の「レイン・ドッグ」で、前衛音楽家としてのトム・ウェイツの代表作だ。

さて、僕は正直言って、トム・ウェイツの八十年代の作品は、「あまりにも初期とかけはなれている」「アバンギャルドでスサマジイ」との前評判にビビっていて、なかなか聴けなかった。元来僕は、ザッパやビーフハートだのと言った多種多様の音楽的要素をもりこんだアバンギャルドな人々の音楽は三度のメシよりも好きなタチであって、ウェイツのアバンギャルドミュージックも完全に僕好みの音であることはキャンプファイヤーを見物するより明らかなことであったのだが、僕がトム・ウェイツに求めていたものは「クロージング・タイム」に横溢している「哀愁」と「しみじみ」だったので、なんだかなァ、と思っていたのである。しかし、ある日、諸用あって父と岡山に行った時、帰りに立ち寄ったCDショップの店頭に、前衛時代の代表作「レインドッグ」が置かれているのが目にとまった。

たった1度の人生だし、聴いてみようか、と突然思った。それに、あんな見事なバラードを書き歌う男が、どんなアバンギャルドを演っているのか、ということもやたら気になりだした。

そして結局購入したが、父の車のカーステでさっそくかけてみて、頭をガツンとぶんなぐられたかのような衝撃を受けた。とにかく、街のゴミ捨て場へチンドン屋が投げ捨てた。壊れた楽器を持ち寄って奏でたかのような、摩訶不思議な饗宴の模様を聴きつつ、僕の頭の中へうかんでいた感想は、たった1言だった。「こういういいレコードばっかりが売られていたら、世の中もっとよくなるだろうになァ」

ふと、バックミラーに映った父の顔が目に入った。自動販売機でコーヒーを買ったのにヨーグルトが出て来た時のような表情で、前の車のナンバープレートを見つめていた。



トム・ウェイツは、若かりし頃は、ピアノではなくギターで曲を作り、弾き語っていたのだという。しかし、恋人から壊れかけの古いピアノをプレゼントされたことをキッカケに、彼はピアニストへと転向したのだった。
実に美しいエピソードではありませんか!「壊れかけの古いピアノ」というのがなんとも詩情にあふれていて胸いっぱいである。例えば、もしこれが、「新品のグランドピアノ」だったらば、何だか鼻につくようになってしまう。
一体いかなる経緯で彼女がトムにピアノをプレゼントしたかというのは僕は知らないんだけれども(ネットなり何なりで調べればわかりそうなものだがあえてそうせずに書き進めている)なんだかすごいもんだ。僕はいまだかって女の子からピアノをプレゼントされたことなぞないし、またピアノをプレゼントするような女の子を知り合いに持ってもいない。それ以前に、「ピアノをプレゼントする」というのは、やはりこれは相当にファンタスティックなシチュエーションではあるまいか。しかもそれが壊れかけて古いのであるから、そのまんまトム・ウェイツの世界であるよなア。

ロックのガイド本で、ディランのハーモニカが「ディランの分身のようにひしょげた音を出す」というふうな表現されているのを読んで、あァうまいこと言うなァ、と感じたことがあるが、ウェイツのピアノは、ウェイツの相棒のように歌っていると思う。彼のナンバーに「ピアノが酔っぱらっちまった」というのがあるが、まさにこれはウェイツが「相棒」への愛情を見事に表現した名フレーズだと思う。

さて、そんな、ピアノにピッタリのトム・ウェイツであるが、もし女の子からオンボロピアノをプレゼントされていなかったら、ひょっとするとトムはピアノの弾き語りをやらなかったかもしれず、そうするとポピュラー音楽史は今とはちがったものになっていたやもしれぬ。言いかえれば、1人の女の力で、ポピュラー音楽史が動いたのである。これこそ、女の偉大さである。

女の力の偉大さを裏付けるはなしをしよう。「北の国から」シリーズの1本で、「初恋」というサブタイトルの作品がある。これを僕は中学3年のお別れ会で観たのであるが、結構印象に残っている。ストーリーは、主人公のジュンくんが女の子にほれて、その女の子が中学を卒業したら富良野を出て東京へ行くというので、自分も東京に行きたいと思い、色々とあって揉めて、(途中でゴローさんに家庭内暴力を振るったりして)、最終的にはジュンくんは東京へ出る手はずが整うんだけれども、卒業まぢかのクリスマスの日に女の子の一家は深刻な事情でどこかへ夜逃げしてしまう。それでジュンくんは、元はといえばその女の子が行くからこそ未知の地・東京へ行こうと思い立ったにもかかわらず、女の子はどこかへ行っちまったので、言うなれば目的・動機を失ったような形で富良野を後にする。傷心のジュンくん。
とまァひどい要約で申し訳ないのであるが、だいたいこんな話だった。

僕は観終えた後で、担任教師が柄にも無く目を潤ませているのを見やりながら、二つの感想を抱いていた。1つは「田中邦衛ってのはヤッパリいい演技をするなァ」ということで、もう1つは「女の力ってなァおそろしいなァ」ということである。
前者はともかくとして、後者について。考えてみればジュンくんは、たった1人の少女の色香に酔ったがために、大幅に人生設計を変更することになったわけであり、言うなれば、十五歳の、まだ何にも運命の残酷さを知らぬイノセントな少年が抱いたちょっとした淡い恋心が、その後の彼の人生を変えちまった、ということである。まだ上げそめし前髪の、あどけない小娘にも、1人の少年の人生を変えるパワーが備わっているのである。であるからして、女の力というのはすごい、と畏敬の念を持って感想を持った、とまァこのようなわけである。

そのように強力な女の力だ、ポピュラー音楽史を変えることくらい、造作もないことだったろうなァ。

冗談はさておき、そんなこんなで、トムが恋人からピアノをプレゼントされたという、彼がピアノ弾き語りを始めるキッカケになった出来事は、実に運命的でもあるし、神様ってのはなかなかシャレた物語を書いてるなぁ、と思えるわけである。



人はなぜ表現にむかうのだろう、青くさい問いかけに聞こえるかもしれないが、実に不思議なことではあるまいか。
正気の沙汰ではない。紙にインクのしみを延々と付け続ける、カンバスにペンキをぬりたくる、木を刻む、粘土をこねる、風景をフィルムに焼きつける、声をテープに焼きつける、その他いろいろ。

時おり、あまり頭のできのよろしくない人から、「なんで小説なぞ書くの?」と問われることもある。そういう時はかったるいので「エンピツのしんがへっていくのを見るのが楽しいからさ」と答えるようにしているが、その問いを自分自身に自分で投げかけてみると、それは混沌としていてよくわからない。

まず、何をキッカケに表現へむかい出すのか。これは、ハタから見ると、ささいな事かも知れぬ。高校の現国の時間に、ドナルド・キーンが「少年時代に世界地図を眺めてはあれこれ夢想に浸っていた」と書いていたのを教科書で読んだものだが、キーン氏にとってはその地図が、彼を表現の世界へと誘ったひとつの鍵であることは間違いないであろう。また、キャプテン・ビーフハートはバスタブの中でセッケンをこねくり回しているうちに、アーティスティックな才能を芽生えさせたのだという。

地図を眺めるのが好きな少年、セッケンをこねくり回す幼児、そんなものはどこにでもいるであろう。が、全員が表現者になるわけじゃないじゃないか。そんな風な疑問もあるだろう。
だが、キッカケはいつも平凡なのだ。どこへでも転がっているのだ。チルチルミチルの青い鳥と同じで、あるんだけれども見えていないだけなのだ。それから何かを引き出す、それが才能というものなのだろう。言いかえれば、引き出そうとする本能があること、それが才能があるということなのだろう。



前述した通り、トムが十歳の時に両親は離婚し、彼は母方に引き取られた。この出来事が、どれだけ少年の心に影響をおよぼしたことだろう。子供にとって、父母の離婚というものは正に悪夢そのものである。
トムの中の父親像は、どのようなものであっただろうか。

僕は、トムは幼年時代の思い出に支えられていたと思う。そしてその思い出が、ドナルドキーンの地図、キャプテンビーフハートのセッケンに当たるものであると考えている。

その思い出――トムにとっての地図やセッケン――とは、父の車のバックシートだった。父の車のバックシートに座って、ドライブに出かけることが、彼の楽しみだった。父とのドライブは、この地上のどこかへ転がっているはずの自由を手にしたような、腐った木のさくを乗りこえて野原へ飛び出したような、そんな希望に満ちた解放感を味わえるものだった。
十歳という、まだ思春期にもなっていないトムの元から、やりきれぬ事情で去って行った彼の父。でも、その父が、トムのために何か素敵な置き土産をしたかのようで、ちょっとだけ救われる話だと思う。

僕は、この話を聞いた時、トムがビートニクを標榜していたのは、父とのドライブをきっかけに「旅」というもの、もっと言えば、ジャック・ケルアックの『路上』のような世界にあこがれていたからではないか、と思った。

では、僕にとっての「ドライブの思い出」ってなんだろう。



今年、祖父が死んだ。
祖父とは、生前、そんなに親しくしてはいなかった。彼が死んでも、家族の一員がいなくなったという感慨らしきものが、正直なところ、あまりつかめなかった。

しかし、最近になって、面白いことを思い出した。

僕が幼稚園へ上がる前のこと。まだ字も書けず、よちよち歩きをしていて、バスタブにゴムのおもちゃを浮かべて喜んでいた頃のことだ。僕はしょっちゅう、祖父の部屋へ遊びに行っていた。僕は毎回新聞のおりこみチラシを大量に持って、部屋へ行っていた。祖父に絵を描いてもらうためである。

祖父は汽車だの船だの、そういった乗り物やら何やらの絵をチラシの裏に描いてくれた。僕はそれをハタで見ていて、ペン先が縦横無尽に動いてゆくうちに汽車が出来上がってゆくのを見つめながら、他では味わえないわくわくとした気分になったものだった。

やがて僕も祖父の影響で、チラシの裏に絵を描くようになった。それは実に楽しくてたまらぬ作業だった。家人は「そんなゴミみたいな紙へ描かずに、ちゃんとしたスケッチブックに描きなさい」と言ったが、僕は聞き入れなかった。

年を重ねるにつれて興味も移り、、そのチラシの裏のお絵描きが、工作となり、童話を書くこととなり、そして小説を書くことになったのであるが、何かを創作しよう、何かを表現しようという意志は一貫している。その、何かを創造する。表現することの喜びや楽しさは、祖父から学んだものであった。もし、祖父に、お絵描きをして遊んでもらっていなかったら、僕はアートとは無縁の人間になっていただろうと思う。

というような話を母にしたら、「そんな話は初めて聞いた」とびっくりしていた。御祖父さん、そんなコトしてたの、と。アァそうだよ、と僕。なんだか知らないけど、トツゼン思い出した。もうずーっと忘れてたことだよ。

ともかく、今なら、まっすぐに祖父に線香をそなえて、お経をあげられるように思う。



先ほど、僕は、人が表現へむかう土壌を作るキッカケは、誰にでも起こりうるささいで平凡なことであり、そのささいで平凡なことから持続的に発展・展開していくことが表現をする上での才能のひとつなのである、というようなことを述べた。まあようするに、表現へむかうことはごく自然なことであり、そして才能があるというのは、表現しようという意志が強い、ということだ、というようなことを書いた。

これらはみな、付随的なことである。肝心の「なぜ表現するのか」ということを、これから少し語ってみようと思う。

根源的なところを論ずれば、鳥や虫も鳴いたり、体の色を変化させたりして、彼らなりの「表現行為」をしているわけだし、(「この世にあるものはすべて歌を詠む」という、紀貫之の理論は、奇跡のように斬新で革命的である。「表現」が何も人間の文明が生み出したものでなくて、すべての生命体において普遍的なものであることを見事に看破している。)結局問いつめていけば「なぜ生きているのか」「なぜこの世に存在しているのか」といった問題に変質してゆき、こうなるともう雲をつかむようなことになってくるので、もっと小さな範囲で考えてみることをお許しください。

僕が小説を書いている理由ってなんだろう。かつては、「自己存在証明のためだ」と言っていたが、それはどうも違うように思う。自己存在証明なんてことのために、あんなシチメンドクサイ道楽が続くわけがない。
僕はなぜ小説を書きたいと思うのか?単に字を書いていることが好き、ということもある。先人の偉大な作品に触発されて、おいらも一ツこういうのを書いてみてェなァ、と机にむかう場合もある。作品を書き上げた後、ぎっしり字のうまった紙の束を眺めているうち、ここちよい疲労感とともにフツフツわき上がってくる満足感、それがたまらないというのもある。
理由はいくらでも思いつく。しかし、どれが一番的を得ているかを絞ることは難しい。なぜなら、僕という人間の本質を問い直す問いかけであるから。僕にとって小説を書くという行為は、メシを喰うことやフロに入ることと同じくらい、当然の大前提の行為であるからである。(少し前までスランプのため一年一ヵ月ちょっとの間、マトモに文章が書けなかった。他の人にとってはどうってことないやも知れぬが、僕にとってそれは一年一ヵ月ちょっとメシを喰えない、あるいは一年一ヵ月ちょっとフロへ入れない、というのと同じ状態だったのである。であるからして相当苦しんだが、その苦しみはなかなかわかっちゃもらえぬだろうなァ)でも、本当は、どうなんだろうか?

しかし、最近、ようやっとわかり出した。

僕は、他人と感動をわかち合おうとしているのではなかろうか?



トムの父は十歳の時、彼の元を去った。父は高校教師だったが、戦時中はラジオのエンジニアをやっていた。家には、父が取っていたラジオのカタログが置かれていた。父とのドライブがビートニク詩人の魂を呼びおこしたように、父と関係の深いラジオという機械は、トムの心をゆさぶった。
「ラジオにすごく魅力を感じていた」とトムは語る。彼が最初にラジオを組み立てた時のことだ。トムは、2ドルのちっちゃなヘッドホンを耳へおし当てて、息を殺してチャンネルを回した。ダンスフロアに石ころまじりの砂をぶちまけたようなノイズの中から、かすかに男の声が拾い上げられた。それは、ウルフマン・ジャックというDJの番組だった。ウルフマンの声が彼の耳へ届いた時、トムは、俺はとてつもないものを発見した、と思った。それは、サン・イシドローから放送されていたが、彼は、カンザス・シティーかオマハから電波が飛んで来たのだろう、と夢想した。これは秘密のラジオ番組で、しゃべっているDJも、かかっているレコードも、誰も知らない、世界中で俺だけしか知らない、俺が見つけ出したDJとレコードなんだ、と夢想した、こころから何千マイルも離れたハイウェイの休憩所、俺の行ったところのない所、そして誰も知らない所から放送されているにちがいない、と夢想した。このチッポケなラジオのアンテナ、それが電波にぶら下がって秘密の王国の扉を押し開いている、そう思った。

今まで知らなかった、そうしてこれからもう2度と体験することのない興奮だった。ヘッドホンを耳におし当てたままで、彼はどうにかしてこの興奮を誰かに伝えたい、どうにかしてこの興奮を誰かといっしょに味わいたい、そう思い続けていた。この興奮を誰かに伝えたい、誰かといっしょに味わいたい、そう思い続けていた。そう思い続けていた。



・・・・・そう思い続けて、俺は歌を歌い続けて来たのさ。トムはそう言って、シケモクに火をつけた。

マッチをする音と、ピアノの鳴る音がした。

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