チャーリー・チャップリン(2003年12月執筆)

連作漫文『文弘風雲児列伝』の第一章。考えてみれば、僕がチャップリンについて書いたほとんど唯一の文章である。





初めてチャップリンの映画を見たのは、たしか小学校6年の7月頃だったように思う。(不思議なことに、その日の日付けは忘れているのに、その日の出来事は昨日のことのように思い出せるものだ。)
僕は父に連れられて、岡山市内のとあるCDショップへ行った。そこで何の気なしにビデオのコーナーをぶらついているうち、チャップリンの作品がずらりと並べられた棚を発見した。
おや、今まで幾度となくこの店へ来たけれども、こんなに沢山チャップリンのビデオを置いていたとは全然知らなかった。僕は棚の前に立ち、「黄金狂時代」だの「街の灯」だのという、あまりにも有名な映画のタイトルの数々をひとつひとつ読んで行った。片田舎の無学な餓鬼であった僕でも、当然ながらチャップリンの名前は知っていた。彼の伝記を小さい頃に読んだこともあったので、多少ながら彼の人となりについては知っていた。世評高いチャップリンの映画を一度見てみたいとも、漠然とではあるが思っていた。
僕は親父のスネにくらいついた。最初に買ってもらったのは、忘れもしない「モダンタイムス」のビデオである。ビデオの裏パッケージには、チャップリン扮するところ小男が自動食事機と格闘しているシーン、刑務所の食堂で隣へ座っていた大男に米粒をとばしているシーン、ポーレット・ゴダード演ずるところの浮浪少女と手に手を取り合って、荒野の一本道をどこまでも歩いて行くラストシーンの写真が載っていた。
それを手にした時、目の前で高速回転しているトウモロコシの向うでおののいているチャップリンの表情を初めて見た時のことは、もうそれは昨日のことのように覚えている。それなのに、それが何月何日の出来事であったかは思い出せないのだ。これだから日付けというものは虫が好かない。

家に帰ってさっそく見てみた。
驚愕した。こんなに面白い映画をみたのは生まれて初めてだった。僕は笑い転げ、また起き上がっては笑い転げ、そしてひとりで盛大な拍手をした。スパナでボルトをしめ続けるうち、その「ボルトをしめる」という単純すぎる動作が止められなくなったチャップリン。自動食事機に備えつけられた、尋常ならぬスピードで回転するトウモロコシと格闘するチャップリン。ついに発狂して、我らの小さな英雄は工場の中を所せましと駆け回り、そこら中のレバーを無茶苦茶に引きまくり、機械が盛大に爆発してゆく。赤い旗を拾えば思想犯に間違われて投獄される。投獄されたと思ったら、刑務所の中でひょんなことから興奮剤入りのメシを喰ってしまい、たちまちやたらめったら強くなり、脱獄囚をやっつけてしまう。しかし釈放されると待っているのは寒風吹き荒れる失業者だらけの街。造船場ではまだ作りかけの船を勝手に進水させ、デパートでは洋服売場の布の下で眠りこけ、どうにもこうにも仕事がうまくいかない。そんな苦闘の中で出会った浮浪少女との恋。少女はレストランで踊り子となり大人気になり、そのコネで小男もウェイターになる。が、ローストダックひとつマトモに運べない。仕方がないので歌手になるが、歌詞をメモしたカフスを本番の真っ最中に落っことしてしまう。困りはてた挙句口からデマカセのデタラメな歌を歌うのがこれが大ウケ。ついに人生の勝利者になった。かと思いきや少女は孤児院のお役人に見つかってしまう。そして2人して逃げて、また無一文、宿無しから再スタートだ。やっとつかみかけた青い鳥はまたどこかへ行っちまったが、小男は「スマイル、スマイル」とつぶやいて、少女とともに一本道を、長く長く続いていく一本道を、まだ見ぬ場所と幸せを求めて、ボロ服のポケットいっぱいに愛を詰め込んで歩いてゆく。

ある意味でそれは、田舎少年の人生を変えるのに充分すぎるほどの映画だった。もうそれからは寝てもさめてもチャップリンである。歩く時は必ず足のつま先を百八十度開き(右折左折する時は「おっとっと」とよろけてみせ)、しょっちゅう肩をすくめ、片足をヒョイともたげて尻でマッチを擦るしぐさを繰り返し(「何変なカッコして尻を掻いてるんだよ」と、物のわかっていない奴に何度も言われたものだ)、スパナをふり回すしぐさをしつつ歩き回り(物のわかっていない奴は、そんなことを毎日しては喜んでいる僕を避けるようになった)、」カサをステッキがわりにくるくる回し、ほうり投げ、キャッチした後でまたくるくる回し(家中探したがステッキが見つからなかったのでカサで代用したわけだが、これはあながち見当外れなことではない。そもそも最初にチャップリンが使用していた小道具はステッキではなく雨傘だったのだ。チャップリンが劇団フレッド・カルノ座の公演で、雨傘をふり回す酔っぱらい英国紳士の役で出演していたのを、喜劇映画の王様マック・セネットという肥えたおっちゃんが見て「こいつはイケる役者だ」と直感し、スカウトした。こうして映画界入りしたチャップリンはアメリカへ渡ったわけだが、どうも彼のパーソナリティは英国臭が強すぎる。そこで、イギリスっぽい雨傘をステッキに持ちかえた。とまあステッキ一本とっても、このように感動的な歴史があるのである。)、そして給食でカレーライスだのピラフだのパエリアだのが出た日には、刑務所の食事のシーンでチャップリンがやっていたようにスプーンをはじいて米粒を飛ばし、隣席の友達を攻撃してみたくてたまらなくなった(実際に飛ばしたこともある。ものすごく怒られた)。
近所に住むサカイくんを招いてモダン・タイムスを観せたこともあった。ひとしきり笑い転げた後で、我々は秘密基地を作りに表へ飛び出した。(そりゃあ小学生だもの、秘密基地ぐらい作るよ)サカイくんの秘密基地計画は庭に穴を掘って地下室を作るという壮大なもので、その時には1メートルほど掘り進んでいた。(この前彼に会った時に「その後、あの地下室計画はどうなったんだい?」と聞いたところ「ああ、地下水が出て来てダメになった。それから四回くらい場所を変えてほってみたんだけど、どこをほっても水が出やがってよう。」とのこと。少年のはかない夢はこうして終るのだ。)

これがキッカケとなり、僕は一時期アメリカの二十年代〜三十年代の喜劇映画をむさぼるように観るようになった。バスター・キートンはまず二巻物から見た。長編で最初にガツンと一発くらったのは「海底王キートン」で、その後、最初はピンとこなかった「恋愛三代記」も最も好きな1本となった。(こういう事はキートンの場合よくあって、この前も昔は嫌いだった『荒武者キートン」を久々に見てみて「なんだ、これはこれでナカナカ面白いじゃないか」と見直した。単に僕の鑑賞能力が劣っているだけかもしれないが)
ハロルド・ロイド主演の傑作「要心無用」には、「モダン・タイムス」なみの衝撃を受けた。「要心無用」の画面に漂う洗練された都会色は、チャップリンやキートンの作品群には求められないものだったのである。
そしてマルクス兄弟と出会った。ここでは多くは語らず、またいずれ何かの機会に彼等についてはゆっくり書くことにするが、「我輩はカモである」と「オペラは踊る」を見た日の夜は興奮のあまり眠れなかった、とだけ言っておこう、そして、その興奮は決して磨り減らないエネルギーに変わり、いまだに僕の心臓の中で爆発し続けていると。
しかしやはり、もっとも敬服したのはチャップリンである。



かつて星新一氏が、1コママンガについての評論の中で、「今まで作り出されたキャラクターの中で、もっとも見事なものはサンタクロースである」というようなことを書いていて、僕は「成るほどうまいこと言うなァ」と思ったものだが、チャップリン演ずるところのチョビひげの浮浪者も、サンタさんに負けず劣らず、見事なキャラクターであると思う。

放浪紳士チャーリー。彼は砂ぼこりをたてつつ、ヒョコヒョコとやって来る。おや、両方のつま先が、百八十度近く開いているぞ。オマケにそのつま先をつつんでいるのは、なんともドタドタのドタ靴だ。しかしこの靴は普通のドタ靴にあらず。おまわりさんに追われた時はスパイクシューズもスニーカーもかなわぬくらいに敏速に動き、悪漢のケツをけっとばすのにおあつらえむきだ。その上、アラスカへ金鉱を探しに行った時には非常食としても重宝された。(くつヒモはスパゲッティのようにフォークで巻きとって食べ、靴底を留めているクギは魚の小骨のようにしゃぶれば一層美味しくいただけます)
さて、少し目線を上へやってみよう。・・・・・・うわァ、ダブダブのズボンだ。しかしダブダブズボンといっても、不良少年がはいているのよりも幾分かホコリっぽい。怒りっぽい大男にけっとばされたり、しりもちをついてばかりいるもんで。そしてコーディネートの妙というか、ダブダブズボンと好対照をなすチンチクリンのモーニング。このモーニングこそが、チャーリーを多少なりとも紳士っぽくしている要因である。そして、もう一つ、彼の装飾品の中でジェントルマンな香りが漂っているものと言えば、そう、ステッキ!身につけていない、が確実にチャーリーの体の一部である。チャーリーが歩く時、このステッキはまるでその横へ寄り添っているかのようで、クルクルと回転してはおどけていて、まるでチャーリーの分身であるかのようにも見える。と、ここで、「おいらを忘れちゃならないぜ」とばかりにピョンと飛び上がったのが、アッ、山高帽だ!チャーリーのあいさつ、それは山高帽をちょっとズラしてみせること。ステッキに負けぬくらい、ヒンパンに動き回っている。おまわりさん、雇い主、悪漢、美しい娘、チャーリーはみな「チャッ」と帽子をかかげてあいさつをする。さだめし日本でいうところのえしゃく、といったところか。この「チャッ」という脱帽こそ、「チャップリンの映画を観ているんだなァ」と心の底から実感させるに足りる、見事なしぐさである。

さて、真打ちにご登場願おう。
そう、チョビヒゲだ。(ここまで推敲)

ヒゲ、ヒゲ、ヒゲ!
3回も連呼してしまったが、これこそがチャーリーの核。何をさておき、放浪紳士チャーリーのトレードマークと言えば、このヒゲに他なるまい。
彼の鼻の下に、おかしくも哀しい風情ではりついている、世界的に有名なチョビヒゲ。チョビヒゲのことを別名チャップリンヒゲと呼ぶぐらいなのだ。
さて、チョビヒゲをつけない素顔の「チャップリン」は、実は正統派の美男子であり、とてもコメディアンには見えぬほどなのだ。その美男子が、品のよい鼻の下に、親指のツメほどの大きさのヒゲをチョットつけるだけで、あの、味わい深く、年齢不詳の、ペーソスとユーモアのあふれ出すルンペン「チャーリー」に早変わりするのである。とにかくあの小さなヒゲ、小さな小さな小さなあのヒゲが、チャーリーというキャラクターを決定づけているということは、皆さんも納得してくださるだろう。

チョビヒゲで有名な人物は、歴史上にもう一人いる。奇しくも、チャップリンと同じ年の同じ月に生まれた男である。
彼は、チャップリンが笑わせた人々と同じくらい多くの人を殺し、傷めつけ、チャップリンを愛した人々と同じくらい多くの人に憎まれている。空前絶後の、最低の卑劣漢。

後にチャップリンは、自身の映画の中でその男を模したキャラクターを演じることになる。



チャップリンが、チョビヒゲ、ドタぐつ・山高帽・ステッキ・ダブダブズボン・モーニングの衣装で初めてスクリーンに登場したのは、「ヴェニスの子供自動車競走」という作品でだった。
「ヴェニスの子供自動車競走」は5分ほどの短編映画。子どもばかりが参加しているカーレースの会場で、チャップリンがあっちをウロウロ、こっちをウロウロしてカメラマンの邪魔をするというストーリー。それだけ?そう、ただそれだけのストーリー。
それから二十六年間、この小さな英雄の活躍は続いた。そして、その後この愛すべき英雄は「青ひげ」になって絞首台への階段を登り、老道化師カルベロとなって「ライムライト」の下から去り、最後は「ニューヨークの王様」として故郷を追われた。



「チャップリンの失恋」という初期の作品がある。僕は、この作品を見るたびに考えることがある。

どこからともなくヒョコヒョコとやって来たルンペン紳士チャーリーが、たまたま出会った農場の娘に恋をする。そして、農場の金をねらってやって来た悪漢三人組と渡り合う。ケガをしたチャーリーはかいがいしく介抱される。夢見心地のチャーリー。
しかしなんということだろう、娘にはハンサムな恋人がいた!チャーリーは、二人が抱き合っているところを見てしまう。
チャーリーは身を引く決心をする。
何も知らないハンサムな恋人がチャーリーに金貨をめぐもうとする。チャーリーはそれを断る。そしてハンサムと娘は家の中へ入る。娘の父もやって来る。3人は幸せそうに笑い合う。と、テーブルの上に一枚の置き手紙があることに気づく。3人はその手紙をのぞきこむ。
拙い字で書かれたチャーリーの置手紙。

「私は、あなたの親切を愛だと勘違いしていました」

チャーリーは、登場した時と同じようにヒョコヒョコと田舎道を歩いて、どこかへ去って行く。

THE END。

これを見た時、僕は、「サーカス」を見た時に感じた不思議な気分が、どんな理由で起こったものであるかわかったような気がした。

「サーカス」は一九二八年の長編作品で、こんな話である。
ひょんなことからサーカスの雑用係に雇われたチャーリー。小道具を運び出す時にドジばかりふんで、舞台を無茶苦茶にしてしまう。しかしケガの巧妙と言うべきか、そのドジぶりが観客に大ウケで、人気のピエロになる。(※予期せぬ大受けというのは、実体験に基づくものさろう。チャップリンが初めて観衆を笑わせたのは、病気の母の代役で歌を歌った時。おヒネリがとんでくるとチャップリンはただちに歌を中断し、それを必死で拾って回った。その姿を見て、観客は大爆笑したという。まるでチャップリン映画の一シーンのような逸話。)
色々あって、チャーリーは曲馬乗りの少女に恋をする。そして一生懸命彼女のために尽くす。腹を空かせた彼女にゆで卵を寄贈してやったり、彼女を嫌って虐待ばかりしているサーカス団長に「あんまり娘さんをいじめるな」と忠告したりと、東奔西走する。
(しかしこの曲馬乗りの少女、僕は嫌いだ。あまりにどんくさすぎる!例えばチャーリーがライオンの檻に閉じこめられてしまった時、こいつは彼を助けるどころか気絶してしまうのだ。仕方なくチャーリーは自分の救出の前に彼女を助ける羽目になる。不運な男だ)

ある日、サーカス団に綱渡り芸人がやって来る。この男、化粧の濃い二枚目で、キザッたらしくスマートな身振りで見事に網を渡るもんだから、少女は「私、恋しちゃった!」なんて目をキラキラさせて惚れてしまうのである。(「バカヤロー、そんなの恋じゃねぇよ、」と、完ペキにチャーリーに感情移入しちゃてる僕は画面にむかって毒づいたものだ。)
失意のチャーリー。だんだん、客を笑わせることもできなくなってゆく。
しまいに、チャーリーはこの綱渡り野郎の代役を務める羽目になる。しかし綱を渡っている途中で命綱は取れるわ、猿にたかられるわで、サンザンな目に遭う。
(この場面の撮影の時、なんとチャップリンはスタントを使わず、本当に自分で綱を渡ったのだった!半年猛練習したというが、半年猛練習して綱渡りができるようになるというのは尋常ではない。天才である)

それでまぁ最後は、いつものようにチャーリーが身を引くのである。その上彼は、馬乗りと綱渡りの馬鹿二人組の結婚式を取り計らってやるのである!あァチャーリーよ、そこまで尽くす男でなくてもよかろうに。
そして、サーカスの一団はテントをたたみ、もうもうと砂ぼこりを立てて去って行く。何もなくなった荒野に1人ぽつねんと残されたチャーリーは、少しさびしそうにしゃがみこむ。と、足元に、サーカス団のマークが印刷された紙がおちている。チャップリンはそれを拾い上げ、くしゃくしゃに丸める。
立ち上がり、その紙玉をポンとけっとばす。そしてくるりと向うをむき、何事もなかったかのようにヒョコヒョコと歩き出す。 THE END。

なんとも悲しい話であるよなぁ。なんともやりきれない話であるよなぁ。と僕はボロボロ泣きながら思ったものだが、と同時に、何か不思議な気分も胸のうちへ漂っていた。悲しさとはまた一味違う、不思議な気分。

その正体がわかった。
「失恋」のラストで、独りさびしく去って行くチャーリーの後姿を見て、僕は「サーカス」を見た時と同じ、不思議な気分に浸っていた。ゆっくり考えてみて、その気分がどういうことを考えたために起こったものであるか、ようやっとわかった。
僕はこんなことを考えていたのである。



チャーリーはこれからどこへ行くんだろうなァ。



愛する人を失い、またぞろ一人ぼっちに戻ったチャップリン。彼の物語はこれで「終り」であるようにも思えるし、事実映画はそこで「終る」のである。

しかし、ちょっと待てよ、と僕は思うのだ。

チャーリーはこれからも旅を続け、行く先々で色んな人と会い、色んな仕事をし、色んな恋をするのだろう。ひょっとすると、農場でフラれたチャーリーが、サーカス団にやって来たのかも知れない。あるいは逆かもしれないし、もしくは、サーカスが去って行くのを見送った後で、チャーリーは街へ出て工場に就職したかもしれないし、捨て子を拾ったかもしれないし、金鉱を探すべくアラスカへ旅立ったかも知れない。

だいたい、「失恋」にしても「サーカス」にしても、チャーリーがどこからやって来たのかは謎なのである。ひょっとすると彼は、それまでも何度となく旅先で恋をし、胸破れていたのかもしれない。
そう、映画を見ている僕等にとっては、農場でフラれたりサーカスで身をひいたりすることだけがチャーリーの人生の全てのように思えるのだが、チャーリーにとっては、それは人生のひとコマにしかすぎないのである。

そう思うと、「失恋」「サーカス」が、あんなに悲しいと思っていたこれらの作品が、何だか前むきな物語に思えてくる。紙玉をけとばして、荒野を歩き去って行ったチャップリンは、またどこかで美人を見つけて恋をするにちがいないのである。


終わりのある物語は存在しない。


人生という物語は、途切れなく続く。その一部を切り取るためのナイフが、芸術なのだろう。
チャップリンの手によって切り取られた「失恋」や「サーカス」。それらは僕にとても大切なことを教えてくれた。僕もいつしかそういうナイフを手に出来る者となりたい。

そう、くよくよすることなんて、ないのさ。

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