ママカリ国から来た男(2004年上半期執筆)
マッシロい空にマッカな線が一本走っていて、青くふちどられたビルが朝もやに溶けかかっている。まったくの無音で、ただただ、マッカな線が浮かんでいるだけであり、僕はそれを何をするでもなく眺めている。一体僕は何処に居るんだろう。やがて僕はぐるぐると回転し出して、耳鳴りのような響が頭の中へこだまして、突然鼻の中へ冷たい空気が流れこんで来たかと思うと目が覚めた。
僕はソファの上で大欠伸をした。あごをなぜると、二日間ヒゲを剃っていないためか、ザラザラという気色の悪い感触が手の平をすべって行った。時計に目をむけると、午前十一時で、そのままゆっくりと下へ視線を下げて行くと、テーブルに突っ伏したままで眠っているここなの半身が目に入った。彼女は頭にスカーフ巻き、描きかけの絵の上へ上半身を載せて、すやすやと赤ん坊のような寝息を立てている。
ザラザラザラザラ。僕はあごをなぜ回しながら洗面所へ移動した。洗面所へ行くのも一苦労で、床一面に散らばったカンバスを踏まないよう注意して歩を進めねばならない。(小学校時代を思い出す・・・ワックスをかけたばかりの教室へ入って、ロッカーに置き忘れたリコーダーを取りに行った、あの時のような慎重な足取りだ)僕の足元に散逸した、猫の絵、バラの絵、街の絵、そして、くもり空へ一本の赤い線を引いた風景画。
「この赤線はどういう意図で引いたの?」と以前、ここなに尋ねたことがある。
「さぁ・・・」彼女はまるで他人事のように答えた。「赤い絵の具が残っちゃったから、取り合えずぬすくっといたんじゃない?」
ウィーン。電気カミソリ、電気カミソリ、文明の利器、科学の勝利。小気味よくヒゲはなくなっていく。しかし、何と律儀に毎日毎日生えてくるのだろうか、ヒゲというものは。ぐうたらな僕に似合わぬほどの勤勉さだ。それにしても鏡に映る僕の顔ときたら、なんと面白く、珍妙な造形物であること!おまけに寝起きである故、目の下が腫れぼったいし、ほっぺたには妙な痕がついている。
スリッパで歩く間抜けな足音がした。スカーフの上から頭をくしゃくしゃ掻きながら、ここなが起きて来た。
「また天気くずれたねェ」
「ああ。ここんとこ、ずっと悪いよな」
僕は窓の外に目をやった。曇天。土手の上に伸びる国道は、車で溢れかえっている。
「みんなどこに行くのかしらねェ」
窓から国道を眺めて、ここなが言う。
「さぁ。インドへ虎狩りにでも行くんじゃないか」
「それにしても酷い天気!」
「ほら、その、テーブルの上へ置いてあるカザミさんがくれた花」僕はタオルでほっぺたをさすりながら、指さした。
「あれ、やっぱり天気が悪いせいかね。なんだかこのところ、すっかり元気をなくして、しおれちまっているようだな。」
「天気、関係あるかなぁ」ここなはモゴモゴと歯ブラシを噛み締めながら言った。
「あれは造花よ」
カザミさんは七年前にカミングアウトして、今では女になっている。実際見たところは、完璧に女性以外の何者でもない。ここなは彼女(彼)をモデルにした絵を何枚か描いていて、今現在冷蔵庫に入っている明太子は彼女(彼)からお歳暮にもらったものである。
「カザミさんかぁ・・・」ここなは歯ブラシをくわえたままで、スリッパ利用者特有の間抜けな足音をさせてバスルームを後にした。
曇天の下をのろのろと走って行く車、車、車の隊列は実に気だるそうな、面倒臭そうな様子で、まるで僕の気分を映し出しているかのようだった。そう言えば、と僕は、机の上に乗っかっている、書いたばかりの短編小説のことを思い出した。それは、うじうじと陰気にしゃべる男が女に故郷の話を長々と語るという、ただそれだけの下らない話だった。僕は書き上げて五分後に「これはどうにも救いようが無いなぁ」と嫌になって、ソファへ寝っ転がってあれこれ推敲をし始めた。しかし、元々悪い顔にいくら化粧をほどこしても、矢張り悪いのは悪いのと同じ理屈で、にっちもさっちもいかない。そして僕はそのまま眠りこけてしまったのである。
ここなが戻って来た。「今晩、カザミさんとご飯食べに行かない?」
「あぁ、いいね」と僕。「なんかプレゼントでも買って行こう。明太子にしてもその花にしても、もらってばっかりだもんな」
「じゃァ、ウメボシ買って行きましょう。カザミさんはウメボシが大好物だから。あっ、それから、カリフラワーも持ってきましょう。ウメボシとカリフラワー。」
「ちょっと待て」僕はコメカミを押えた。「ウメボシとカリフラワー?」上目遣いに彼女を見る。
「うん。貴方はカリフラワーの方を持っててね」
僕は、ニコニコ笑いながらウメボシを持って立っているここなと、その横で同じくニコニコ笑いながらカリフラワーを持って立っている自分の姿を想像して、対応するカザミさんはさぞ戸惑うことだろうと結論した。
「カリフラワーもカザミさんの好物なの?」
「ううん、別に。」
僕の頭の中を一杯にする、クエスチョン・マーク。
「さて、何か食べる?」とここな。
「食パン焼いたやつでいいよ」(どうも、今朝の空気には「トースト」と言う言葉の響きが似つかわしくない気がするので、こんな言い方をしてみる。)
よく見てみると、やっぱり気のせいだったようだ。萎れているとは言い難いな・・・と思いながら、僕は花を眺めていたのだが、ここなは、自分の顔がじろじろ見られていると誤解したらしく、「何、何か付いているの」と顔をはたき廻している。(面白いので、ほうっておく。)花を観賞中の僕が飲んでいるのは矢鱈と薄いコーヒーで、アメリカ人もここまで薄くしては飲まないだろうと思われるほどの逸品だ。しかし、淹れたのはほかならぬ僕なので、文句の言いようが無い。ここなも、口には出さないのだけれども、非常につらそうな面持ちで啜っていて、実に気まずい。
「カリフラワーの事だけれどね」とここなが言いかけた時に、ピンポンとチャイムが鳴った。「出てくるよ」と僕はマグカップを置いて、立ち上がった。
ドアを開けたら、貧相なオバサンが立っていた。血色悪く、すっぴんであるせいか眉毛がなく、ちぢれたほつれ毛がカラスの足跡に張り付いていて、洗いざらしのダブダブのジーンズを穿いている。見ているだけで、わけもなく哀しくなってくるようなみすぼらしさだった。
「ここちゃん、おコメ切らしちゃったんだけど、少し貸してくんない?」とそのオバサンは言った。
誰だろうか、この哀しい人は、と、色々考えてはみたものの、全く思い当たる人がいない。しかし、ここなはアッ、ハイハイハイと、黄色い声で返事をしながらお米を取りに行き、僕も何だか分からぬ間に、取り合えずお辞儀すると、向うもニッコリ笑ってお辞儀を返した。そうして哀しい人は、ここなからお米の入ったビニル袋を受け取ると、「アリガト」と言い残して、さっさと帰ってしまった。
「今の人、誰?」と僕が問うと、
「誰って、お隣りのカワムラさんの奥さんじゃない」
「えっ!」僕は驚愕の声を上げた。カワムラさんの奥さんはこの辺りで一番の美人として知られている。
「だって、眉毛も半分なかったじゃないか」「そりゃ、すっぴんだもの」
世の中には科学で解明できぬこともある、とは言うけれども、消失した眉毛の行き先も、やはり人類永遠の謎なのであろうか。
「で、さっきの話だけどさ」ここなは焼き上がった食パンを二枚持って来た。彼女はそのうちの一枚を僕に渡して、返す手でバターの容れ物を手に取った。
「昨日、夢見てね」
「どんな夢」
「ふるさとの夢」ここなは、パンに齧りつきながら言った。「里帰りするんだよね、それで、駅に着いて、列車から降りたら、全然知らない街が広がっているの」
「驚いた?」
「ううん。それがね、全然違和感がないわけよ。」
「心象風景ってやつかな」
「そうかもね」ここなは、一息で残りのコーヒーを流しこんだ。彼女は本当に食べるのが早い。「でさ、その町はさ、街路樹の代わりに、カリフラワーが植えてあるの。」
「カリフラワーが?」僕は少し笑った。「どうしてまた」
「分かんないけどさ。街のあちこちに、大きなカリフラワーが生えててさ、イルミネーションされてるのとかもあって」
「電飾カリフラワー!」
「そう。すごく綺麗だった」ここなは、小指の先に付いたバターをぺろりと舐めた。「だからなんとなく、風見さんのお土産にはカリフラワーがいいんじゃないかって思えてさ」
曇天から雨がこぼれ落ちて来た。ストーブが切れてしまい、僕らの足は冷気に包まれている。ここなは両手をすり合わせては、暖かい息を吹きかけている。
なんだか、自分の故郷の話がしたくてたまらなくなった。しかし、僕のふるさとはね、と言いかけるなりハタと言葉に詰まってしまった。何を語ればよいのか、皆目わからなかった。というのも、故郷は僕の一部となっていて、全く関係のない、第三者として見られる対象ではなかったのである。とり合えず、「僕のふるさとはね・・・」とだけ言ってみたが、後が続かない、
その時ふと、ママカリのことが頭へ浮かんだ。
ママカリは僕の故郷の特産物の魚である。酢漬けにして、チラシズシの具にしたりする。口が曲がるほど酸っぱいことも多々あるものの、なかなか味わい深くて旨い。
しかしなぜ「ママカリ」と呼ばれるのか?この「ママカリ」という奇妙奇天烈なる名称には、如何なる由来が有るのであろうか?悠久の中国から伝来した言葉でもなく、はたまた南蛮から伴天連によって伝来された言葉でもない、純然たる日本発祥の言葉である「ママカリ」、その言われとは何ぞや?
種を明かせば、簡単なことである。この魚は、ご飯に大そうよく合う。したがって、これをおかずに飯を喰うと、ハシが進むわ進むわ、いくらでも食べられる。そのうちご飯がなくなってしまう。あれ、ご飯がなくなってしまった。お櫃の中も、お釜の中も、俵の中も、空っぽ。仕方がないので、お隣にお米を借りに行く。米(マンマ)をかりに行くので、ママカリ。
外の雨は相変わらずで、それをかぶりながらのろのろと走って行く車、車、車の隊列は実に気だるそうな、面倒臭そうな様子だった。ここなは空っぽになったコーヒーカップの向うから僕を見ている。長いすじを作って消えた雨粒の行く先を気にかけながら、僕は「ママカリって魚があってさ」と話し出す。
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